キレイではないものが長らく目立つ場所にあったのなら、キレイにするつもりなんてなかったってこと。
揉めるに決まってる仕組みで毎回揉めるなら、揉め事を起こすつもりだからそのまんま。
合理より非合理で、理屈に合わない合わせないから、そうなっている。
そんなところは、非合理より合理ですべてのものに理屈で説明がつくと思っていると、居心地が悪くなるばかり。
札幌に来たばかりの頃は、大雪が降っても都市機能は休みなく動き、190万住み都市と豪雪がうまく繋がらなかった。雪が降らない都会や都市では、積雪5センチや10センチで都市機能は麻痺しがちで、都市が都市でなくなる。今から思えば、大雪でも都市機能が休みなく動いていたのは都市機能が点だったからで、大都市のように面となったらやっぱり麻痺するのかも。
天災でも人災でも。イベントごとに都市機能が麻痺しても許されるのは田舎だから。あるいは大都市ではないから。
見た目は立派な都会や都市でも、中身は田舎のまんま。田舎のまんまで合理より非合理が幅を効かせて勝っていたら、立派だった見た目も中身相応に変化していくのかも。
揉めるに決まってる仕組みで、毎回揉めごとをイベントのように楽しめるのならその種の適性があるってことで、適性のある人しか残れないようになると純度ばかりが濃くなって、揉めごとウェルカムで、ノー揉めごとノーライフなお祭り人間ができ上がる。
大きなイベントになるほど大きなお金が動く。そういうルートを示すだけで、勝手にその種の人はそこに集うようになる。
キレイでないものがそのまま残り、揉めごとを起こす仕組みがそのまま残り続けるのは、大きなお金のなかにはその種のものも含まれているから。
キレイなものしか残らない。揉め事を起こす仕組みも残さないのなら、大きなお金は動かず予算にも余裕がないことを示してる。
邪悪にならずに済むのは金銭的余裕があるからで、金銭的余裕が失われるとキレイなものしか残らないようになる。金銭的余裕がすでに失われた場所で、邪悪になるなと啓蒙するのは非合理な行為で、非合理な行為だから合理を選ぶ人は、そこにはもういない。
非合理なものがすべからく悪いわけではないから、いいも悪いもなくただ好きか嫌いか合うか合わないかで分かれていく。ただそれだけ。