クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

美談と美談を利用した蓄財とは紙一重

かつてのベストセラー作家で今は直木賞作家。その人が二・二六事件をテーマにした作品を発表した時、巻末に参考文献として挙げられていたとある本からの引用が、引用というよりは引き写しやんと思うほど丸写しが多くて面食らった。

 

参考文献として挙げられていた方の本は、とっくの昔に捨てちゃったから証拠として示せるわけでもないんだけどさ。

 

最近も、どっちがどっちだかわからない。完コピといっていいほど似通った二冊の内容の本を見たばかり。これはまたべつのインフルエンサーの話。ついでに言えば、最近とある新聞記事でも見たな、そういうの。

 

表現規制ケーサツに道徳ケーサツと、いろーんなほにゃららケーサツがSNSを跋扈するほどに、決してほにゃららケーサツが動かないし騒がない案件に界隈の特異性がくっきりはっきりする。決してほにゃららケーサツが動かないし騒がない案件に界隈がある、自浄作用の効かない界隈の言うことなんて、誰もまともに取り上げないし取り合わない。

 

まともじゃなくなったものは、誰もまともに取り上げないし取り合わないから、界隈ごと沈んでいくのは正しい。

 

二・二六事件五・一五事件。どちらも日本が太平洋戦争に突入する前の、軍部の暴走として知られている。どちらも相応に歴史の流れに作用したはずなのに、二・二六事件の方がフィクションの題材としてはよりお馴染み。

 

斎藤史(さいとうふみ)という女流歌人が居て、陸軍少将であった父親が二・二六事件連座して禁固刑。父親を通じて親交のあった青年将校の幾人かもまた処刑され、処刑あるいは罪に問われた彼らをテーマに短歌を詠んだ。

 

特に仲がよかったとされる人は、クーデターで果たした役割そのものよりも、彼女との親交が厚かったというエピソードでより名が通ってるような気がしてしょうがない。大根なんだけど、プロデューサーと仲がいいからメディアでの露出も多い俳優やタレントみたいに。

 

短歌というフィルターを通すと、青年将校たちの暴走でクーデターという暴力行為も、悲劇の色彩を帯びてなんだかロマンチックになって、ロマンチックだから処刑された青年将校その他に多くの同情が寄せられることになったと個人的には思ってる。

 

暴力行為で越権行為なのに、“義”の物語に塗り替えちゃった。

 

雪の日の出来事だったということもあり、オーバーラップするのは赤穂浪士の討ち入り。二・二六事件赤穂浪士の討ち入りのどちらも、私心を超えた義の物語。大義に殉じる姿が涙を誘ったけれど、たかがお涙チョーダイの美しいお話のために、大儀に殉じて暴走する奴が後を絶たなかったら、迷惑でしょうがない。

 

短歌や音楽、今だったら映画にネットドラマといったフィクションや芸術。

 

史実として定まった、あるいはいまだ史実として定まらない出来事も、感情をのせてドラマチックに歌い上げると、史実とは異なった姿が独り歩きする。いったん史実とは異なった姿が独り歩きして拡散すると、取り消すこともより難しい。

 

二・二六事件でクーデターに連座したとして処刑された青年将校たちは、何しろ青年で将校だから、当時の若きエリート。お婿さん候補として大変魅力的な人材で、見た目も悪くなかったら、そりゃ若きエリートとの結婚を夢見る女性たちからしたら、彼らの処刑は涙ふり絞りたくなる事件だったに違いない。

 

若きエリートとの結婚を夢見る女性たちにすれば、涙ふり絞りたくなるような出来事を短歌に託してロマンチックにドラマチックに歌い上げるのは、見方を変えれば商魂たくましくてあざとい。

 

商魂たくましいと蔑まれようと、あざといとそしられようとお金が必要で、そのお金が浄財となって必要とする人たちのもとにちゃんと渡ったのか。それとも、目的は立派だったけどやっぱり詐欺じゃんというよくあるアレで浄財にはならずに誰かのポケットに入っただけだったのか。

 

何かと物入りな人たちは、物入りに備えて自由にお金が引き出せる、ポケットに財布を必要とする。

 

美談と美談を利用した蓄財とは紙一重紙一重になっちゃったから、美談を美談として流通させるためには、より工夫が必要になったのが今どきで、世知辛いけどしょうがない。