クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

越えようとしないと、越えられない。

コロッセウムにグラディエーター円形闘技場で死闘を繰り広げる剣闘士を世界的に有名にした映画、『グラディエーター』。

 

オールタイムベスト間違いなしの名画の続編、『グラディエーターⅡ』の主役はルシアス。

 

祖父は哲人皇マルクス・アウレリウス、叔父である皇帝コモドゥスにも愛され、笑顔とお日様がよく似合う明るい少年が、むさくるしい成人男性となって登場。おまけにルシアスの父親は、前作『グラディエーター』の主役マキシマスだって(←予告編でばらしてた)。

 

超展開にえぇっ!?とびっくり。内容が気になったので、映画館で観てきた。

 

オールタイムベスト入り間違いなしの名画の続編なんて、そもそも作るのが難しい。前作がベストだと思ってる観客の前に、素晴らしい傑作を用意してもコレじゃないと一蹴されるのがオチ。

 

グラディエーターⅡ』では前作と同じレベル、同じ水準ではダメとばかり海戦も登場し、作る方はより楽しかったんじゃないかと思わせる作り込みっぷり。四半世紀も経てば映画撮影の技術も観る環境も進歩する。これは、映像も音響も通常スクリーンより没入感増し増しのドルビーシネマ(at ココノススキノ)で観た人の感想です。

 

殴り合いは生々しく血も飛び散る。R15+指定なのも納得で、馴れ合いや手抜きの死闘では意味がない。その種の娯楽があるんだということを理解できるのは、やっぱり15歳以上。


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(これは札幌駅前にあるもの)


人皇マルクス・アウレリウスの娘がルシアスの母。皇帝の娘婿であるルシアスの父は、前作ではすでに故人でただ影が薄かった。一方前作の主役マキシマスは、ローマ軍、つまり当時世界最強軍の将軍にして英雄。政変で奴隷となっても剣闘士として勝ち上がり、ついには皇帝コモドゥスを闘技場に引っ張り出して勝利した、伝説級の英雄。

 

その英雄マキシマス(演じるラッセル・クロウはこの役でアカデミー主演男優賞獲得)が、”あなたの本当のお父さんよ”と長年音信不通だった母に突然告げられても、知らんがなで放り出してもいいところ。立派過ぎる出自とともに放り出してもいいところ。

 

五賢帝の時代はすでに遠く、ローマの絶頂期も過ぎている。

 

人皇マルクス・アウレリウスもその息子のコモドゥス帝(ルシアスの叔父)の時代もペンと剣。最高位にある皇帝でさえペンと剣を自らとってふるっていた。ルシアス成人後『グラディエーターⅡ』の時代では、白塗りの皇帝がおもに手にしているのは酒杯。鍛錬もなく、戯れに剣をとっては振り回す。


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大自然にいるはずの動物が、人工物ばかりの街中で飛び跳ねている)

絶頂期を過ぎたとはいえ、強大な外敵など見当たらない。ローマの弛緩した空気や退廃は、すでに市民にまで及んでいる。正しいものと良いものばかりだった、マキシマスの時代とは、あらゆるものが変わりつつある。

 

そういう状況で、英雄の父を持ち立派過ぎる出自をそんなの知らねーで放り出し、そうではなかったその他大勢と同じように振舞ったところで、すでに堕落あるいは脱落した市民やその他大勢を喜ばせる、あるいは娯楽の種を与えるだけ。

 

オールタイムベストに入るような名作の続編は、作ることがすでに挑戦。


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(自然の中では愛らしい動物も人工物の中に置かれると猛々しさが増す)

その映画のなかで、前作では登場するだけで愛され歓迎された。ただ愛らしかった子供がむさくるしくなって、王宮や宮殿とはかけ離れた荒んだ世界で自身を鍛え、自分とも敵とも戦っている。

 

挑戦をやめ、”越えられないからこれでいい”となったとき。越えられないが天井となって、本当に越えられなくなる。

 

だから、こんな作品あるいは英雄の父・立派過ぎる出自も放り出すことなく越えようと、主人公が作品が作り手がチャレンジを続けると、越えられないはずのものさえ越えられる。

 

アカデミー作品賞を取り、主演男優賞を受賞した。

 

過去の成功体験を上回るのは難しいは、五賢帝の時代、パックスロマーナを超えるのは難しいと同義で、作品・時代設定・主人公そのすべてに共通するのがチャレンジ。

 

絶頂期を過ぎたとはいえ無敵で当分安泰。だから、ペンも剣も持たず鍛えずただ怯懦に流されている白塗りの皇帝=リーダーの姿は、”自分たちの器以上のリーダーは持てない”を表現しているよう。

 

ペンで、あるいは剣でリーダー”ではない方”の器を大きくしようとするリーダーはだから偉大で、偉大なリーダーのもと文化は発展する。

 

子供だったとはいえ五賢帝の時代を知っている。英雄の正しい行いも見ていた。そして、正しくも良くもない世界も見ている。

 

父マキシマスのようなカリスマにはならないまま理想を追う、ルシアスの時にスマートでないふるまいの数々はその他大勢の人と等身大。英雄ではない青年の姿としてありふれていて、好感がもてた。

 

英雄はめざすものではなく生まれてくるもので、ありふれた人の中に英雄が潜んでいるんだとも思った。

 

特にクセは強くない。けれどそのふるまいや出す結果は英雄そのもの。英雄をよく知る人が、英雄ならやりがちありがちなクセを消していくと、らしくないけど英雄という虚像を作り出して演じられるのかも。かもかも。

 

古代ローマも剣闘士も非日常。だけど不思議と日常との連続性を感じるのは、非日常を求めて右往左往する群衆の姿がとっても見知ったものだから。

 

比較する名作を知る人と知らない人とでは、大きく評価が変わる。そういう映画だとも思った。


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