クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

パッカーン

住んでる街があって国があって、国の属するエリアがあって。

 

例えば北海道札幌市なら、道民という意識が先かそれとも市民という意識が先か。あるいは、もっとでっかく国民という意識が先か、さらにいえばアジアの一員という意識が先か。

 

アジアの一員という意識が育まれるのは別のエリア、欧米やオセアニアあるいはアフリカといった別のエリアとの遭遇を経てるから。例えばフォークよりもお箸を使う方がしっくりきて、しょうゆや味噌味に安堵して、洗い場と浴槽が別になった湯船にゆっくりつかると安心するのはそれらに馴染んでるから。

 

馴染みのある習慣を奪われた後で初めて、馴染んでいた習慣に気付くもの。

 

今だったら、欧米でもオセアニアでもあるいはアフリカあたりでも。箸もしょうゆも味噌もお風呂っぽいスパも、まったくないわけではないに違いないけどお手軽からはほど遠い。そもそも似たような習慣を持つエリア内だったら、馴染んでいた習慣に近いものもより手に入りやすい。

 

アジアの一歩先、地球市民という意識は、四大陸下手したら五大陸のものだって、その気になれば簡単に手に入る環境から生まれて育まれる。そういう環境が想像もできなかったら意識は内へと向かって内向きになり、エリアの一員よりも国民よりも市民あるいは区民、さらにいえば町民レベルで世界を計るようになるのかも。

 

廃藩置県が決まって、馴染んだ藩名からいきなり馴染みのない都道府県名を押し付けられて戸惑った時の気持ちは、きっと平成の大合併で馴染みのない市や町名となった時の気持ちと一緒。

 

それなりの来歴があって別の名前を選んで各々独立していたエリアが、一緒になったからといってすぐに一枚岩になれるわけがない。

 

今では同じ名前になった都道府県や市や町も、丁寧に来歴を遡ってみれば水利やその他をめぐって反目した過去のひとつやふたつあるいはもっと、ほじくれば出てくるもの。

 

一見すると強固に見える一枚岩も、見る人が見れば割れやすい、あるいは割りやすい筋目が見えるんだろう。いつもいつも、とっても上手に一枚岩を砕いてきた。揉め事をほじくり返し、ほじくり返した揉め事を取っ掛かりにして一枚岩を砕き、砕いた一枚岩のどこかに落ち着きどころを見つけてきた。

 

その種の壊し屋さんは、砕かれたから別の場所で一緒になるしかなかった、砕かれたけれど再び一緒になれる場所で新たな一枚岩を作り、壊し屋を待ち構えていた何かに先回りされると、今度はあっけなく壊される。

 

割る一枚岩のサイズに合わせ、大きくなっていった壊し屋さんも、壊されたあとはダウンサイジングして、また小さな一枚岩を割る作業から始めるんだよ、きっと。