クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

あのポプラの上が空

北海道で医学部のある大学といえば、今でこそいくつかあるけれど。ポプラと医学部で連想するのはやっぱり北大で、北大のある札幌。

f:id:waltham70:20220901153104j:image

医学を学ぶために札幌にやってきたある男子学生が、開業医のお家に下宿することになる。いわば書生のような立場で。下宿という言葉さえ懐かしくなった現在からすると、書生という概念はさらに説明が必要に違いない。

 

要するに家族ではない若者の衣食住といった身の回りの世話をしながら、優秀な学生が学業に専念できる環境を用意する。資金にも住まいといったスペースにも余裕のある階層の人たちが、青田買いの思惑ありきで将来有望な若者を囲い込む仕組み、くらいに理解してる。

 

余裕で四半世紀は過ぎている、もうちょっとがんばれば半世紀に届こうかというくらい大昔に読んだ小説の舞台は恐らく札幌。主人公は医学生で、彼の目から見た札幌で成功した金銭的には何ら不自由のない家庭における、戦後の暮らしを語ったもの。


f:id:waltham70:20220901153314j:image

f:id:waltham70:20220901153318j:image

彼が身を寄せることになったお家はモダンでオシャレで、開業医から総合病院へと発展した成功者の住まいらしく、立派。

 

住んでいるのは病院を大きくした老医師夫妻とその息子で病院経営者の息子夫婦に二人の娘。病院経営は息子に譲っても、家庭内の実権はまだ戦争を生き抜いた老医師が握っていて発言権大。

 

貧しい方が普通で貧しくない方が珍しかった、戦後がまだそう遠くなかった当時。豊かな人たちの家庭なら“乳と蜜の流れる地”ではないけれど、笑いさざめき誰もが笑顔の明るい家庭を想像するけれど、どうもそうじゃない。

 

生活には何の不自由もない家庭なのに精神的には荒廃が見られ、荒廃の度合いは年長者、戦争を直接体験した世代により色濃く現れている。

 

ストレスが昂じると金髪のカツラを被りだす、いち家庭の主婦で息子の配偶者で二人の娘の母は相当変わってる。

 

変わってるけれど、不機嫌だという心情をあからさまにする術を身に着け、奇矯な行動も家庭内におさまっていれば常識の範囲内と言えなくもない。家族は、金髪のカツラを被りだした妻や母への対処法(大体はスルー)を身に着ければいいだけ、秘密を他に漏らさなければいいだけ。

 

青年を呼び寄せ折に触れて“経営以外の家のことや家庭まわりのこと”を主人公に教えるのは老せんせい。主人公の学生と大して歳の違わない二人の娘がいる家庭に住まわせるんだから、登場人物のみなが何となく“将来の家族の一員候補”として彼を見ている。本当の家族となるのか、ファミリービジネスの一員となるのかはその時点ではまだ不明。

 

大学に進学し、高等教育を受けられる人の数が今より希少で戦後や戦後復興といった言葉がずっとリアルだった半世紀以上前の日本で、医学部に進学できるくらい優秀な学生がすでに成功した病院経営者一家の庇護を受ける。

 

シンデレラボーイっぽい状況に置かれた青年は徐々に、お世話になることになった一家の特殊性を知っていく。

 

もっとも厄介なのは一見上品な老婦人。老せんせいの奥さんで二人の孫娘のおばあさんで、上品な身なり上品な物腰のまま、パチンコ通いを止めない。

 

成功した、別の言い方をすれば戦後も没落しなかったいいお家の奥様が、パチンコ屋に出入りするのも外聞が悪ければ、もっと外聞が悪いことにこの老婦人は何らかの薬物中毒で、薬物が入手しやすい場所であるパチンコ通いを止めないから、一家にとっては厄介で腫れ物。

 

射幸性の強い娯楽に薬物。両者に共通するのは“忘我”。忘れ難い何かがあり、忘れ難いものを忘れられるものに傾倒する。

 

薬物に依存しているけれど日常生活には支障がなく、日常生活に支障をきたさないために薬物に依存する(あるいは、した)、その結果だったのかもしれない。

 

なぜおばあさんがそうなってしまったのか。おじいさんだけが知っていて、おじいさんが秘密を打ち明けるのならファミリービジネスの一員ではなく家族の一員として青年を迎えたいから。

 

野蛮・不潔・卑怯で残酷。あらゆる蛮行をその目で見聞きした戦場から“わが家”に戻ってきたおじいさんを迎えたおばあさんは、「あなたはきれいなの?」と言い放つ。

 

医師という職業ゆえに、戦後も農地を失って没落した大地主ほど大変な目にもあわず、戦場から遠く離れていたおばあさんのひと言は、本来ならおじいさんを壊してもおかしくなかったのに壊れたのはおばあさんの方。

 

四半世紀は余裕で過ぎている、下手したら半世紀にもうすぐ手が届きそうという大昔に読んだ小説の中身を詳細に覚えてるのは何しろ中身が強烈だったから。

 

良家のご婦人が、当時は悪所と言われたパチンコ通いを止めずに薬物中毒を患い、裕福で恵まれた一家に影を落とす。影をものともせず、あるいは影があったゆえにおじいさんは家業を発展させ、影があっても日の差すわが家を築き上げる。

 

そのさまをおじいさんの代から見続けるのはキリスト教作家で、敗戦を経て復興へと向かう世の中で、精神面、人の心に立ち入る余裕があったのは戦勝国の宗教だったんだろうと今なら思う。

 

日本にも古来から日本由来の宗教という非常時のバッファーがあったけれど、生活を立て直す方に力を貸すのに忙しく、人の心という繊細なものを取り扱う際にはより余裕のあるバッファーを発動させ、出来上がってきたもののうちのひとつが、『あのポプラの上が空』で、インプットが先でアウトプットはあと。

f:id:waltham70:20220901153240j:image

硬骨漢という言葉がピッタリくる老せんせいというキャラクターは、野蛮で不潔で卑怯で残酷であらゆる蛮行が横行する戦争を経ないと生まれてこないし映えない。

 

いってみれば戦争という経験から生まれてくる最良のもので、だから復興も進むけれど、だからといって戦争は必要ない。

 

おじいさんおばあさんが一世代目なら、経営者夫婦は二世代目。三世代目となる二人の娘にも語り手となる青年も、差す影は薄いか差さず、屈託なく笑うことができる。

 

物質的には豊かで恵まれ、戦争からもっとも遠いところにいたはずのおばあさんがもっとも酷い目にあう戦後も、おばあさんに老いの兆候が現れもうすぐ終わるんだろうというところでお話は終わっていた。

 

語り手が医学を学ぶ学生だったのは、彼らの前には今後もおばあさんによく似た人が現れ続けるから。

 

パチンコ通いをやめない上品な老婦人は、端的に言えば“とっちらかっている”。

 

片付けることのできない、整理のつかない心の傷を抱えてとっちらかったままだから、何らかの形で医療的ケアが必要となる。そういう存在と出会った時に間違った処方をしないよう、非常時にはバッファーとして発動する(or発動させられる)側が戒めとして残していった。そういうものは今さらもう一度読み直そうという気にはならない。

 

何しろ強烈だった。

 

“鼻をつまんで食べるドリアン”のようなもので、美味だと言われてももう一度試す気にはならないし、何より常識や道徳が変わると差別的と言われかねない内容が含まれているから。

 

だから、現代風に読みやすくリライトされたとしても読む気になれないし、書かれた背景や存在意義抜きに語れないものは、背景も存在意義ともカンケーのないものにはお呼びじゃない。

 

Back to the schoolで、9月1日は世界標準では学校が始まる日のはず。

 

学び続けるものだけに開かれる扉を、開けるのか開けないのか。一人で開けるのか大勢で一緒に開けるのか。

 

一人で開けた扉の向こうは、三世代ほど経てば何ともなくなり影も消えていくけれど、みんなと一緒に開ける扉の向こうはもしかしたらもっと途方もないものかも。かもかも。

f:id:waltham70:20220901153956j:image