クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

しぶとい

海によって隔てられた寒冷地という地理的・気象的条件のおかげとそのせいで、北海道では採れないあるいは量産が難しい野菜や果物というものもありまして。

 

そもそも採れない、あるいは量産ができないものだからお値段はお高くて、お高いから北海道以外では日常品でも北海道では非日常品扱い。その種の本来お高いはずの野菜や果物が、イベントに合わせてもっとお高くなるシーズンなのに劇的に安くなっている。

 

という時は、航空便がスッカスカ(らしい)という事前情報と脳内で勝手にブレンドされて、空気を運ぶよりマシだから、貨客混載やあるいは思い切ったディスカウントの提示で急遽行き先が変更されて、お値段は本来の行き先、消費地に合わせた価格で出ています。という奴かな???と想像が広がる。

 

数が増えるとそれまでの序列が崩れて何が何だかわからなくなる。

 

知名度の高さで優先的に“目立つ場所“に置かれていたものも、近頃回転が早くなって、初めて聞くあるいはあんまり聞いたことがないものに場所を奪われがち。

 

目立つ場所をめぐっての攻防戦かつ下克上は、身近過ぎるすぐその辺でも垣間見れるような気がしてうーんざり。仕切る人や仕切れる人がいなくなると、この種のうーんざりするような、ここでやらんでもいいやろという攻防戦かつ下克上がますます身近になるのかも。かもかも。

 

うーんざりが昂じるとだいたい見たくもないになって、そのうちうーんざりするものは見かけなくなる。だから、見たくもないという状態になるまで、うーんざりするような攻防戦も下克上も続けられる。

 

うーんざりするような攻防戦も下克上も、見たくもないと言われるまで続ける動機が生まれるのは、下克上も攻防戦もごめんな側。つまり見たくもないという状態は、結局は現状維持が勝った状態さ。

 

本当に変えたいものがあったら、ただ混乱をまき散らすだけのような手法も、攻防や下克上をあからさまにして反感や嫌気を催すような手法もとらない。変えたいものなんてほんとはないから、変化や変化に伴う混乱をことさら過激にすることで、変化への反感や嫌気を催させることこそが、本当にやりたいことなのかも。

 

1970年代にあったオイルショックの時にも、トイレットペーパーがなくなるとの憶測に踊らされて、トイレットペーパーに人が群がったんだとか。

 

その時、なくなると笛を吹いた人と吹いた笛に踊らされた人は、一体何を根拠にその噂を信じたんだか。きっと今回も同じような人が笛を吹いて、同じような人が笛に踊らされてたのかも。何しろ古いものは古いだけに物知りだし、しぶといから。