クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

どっちを見るか

何らかの疎外感を感じてる人がもしいたら、そんな時は絶対に多数派、大勢の人から支持されている側を見るようにした方がいいと思ってる。少数の人による少数のための少数の方を向いた側には、時には見れば見るほど疎外感が募るような仕掛けが潜んでいることがあるから。

 

疎外感が募れば募るほど、言動は過激になっていくもの。

 

少数の人による少数のための少数の方を向いた側についても感化されず、過激にもならなずに済むのは、そもそも疎外感をまったく感じてない場合だけ。少数派に対するシンパシーの持ち合わせさえそもそもなかったら、道具として便利に使ったあとは切り捨てることにも躊躇しない。

 

躊躇せずに切り捨てたあとの後始末は一体誰がやるのさと考えると、そんな余裕は多数から支持された側にしか最初からなく、余裕を絶やすわけにはいかなくなると、永遠に多数派を多数派のままで生かし続けることになる。

 

少数派に対するシンパシーはまったく感じられないのに少数派のリーダーを買って出るのは、永遠に多数派を多数派のままにしておく一環だから。と、考えた方がしっくりくるような人選もある。

 

多数派が永遠に多数派のままで固定されるようになると、世の中全体の流動性も落ちて、下克上のような社会階層間の移動も難しくなる。

 

後ろ指なんて気にせず社会階層の上層めざして駆け上がり、ゴールしたあとは自身がたどった道を落として模倣犯が現れない仕組みに変えると、もう下克上に脅えることなく安心できる。

 

自身の模倣犯、コピーは絶対に現れないような仕組みに変えるのは、万人が真似できる方法ではまったくないからで、なおかつ複数の模倣犯が現れるだけで世の中の方が先に壊れてしまうから。ということもあるかもね。そう何度も世の中、入れ物の方が壊れるようだったら、危なくってしょうがない。

 

危なくてしょうがないのに危ない橋を渡らせようとけしかける側は、過激なものこそを待ち望んでいる、一生飼い殺しが決定済みでごちそうとなる刺激に飢えている境遇なのかもね、と想像する。