クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

棚からボタ餅

宝くじの高額当選者に進呈されるという、高額当選者の心得的な読み物。

 

本当に、そんなものが存在するのかどうか。何しろ知り合いには宝くじの高額当選者なんていないから、真偽は知らね。確かめようもなし。ただ、金銀財宝がここにあるよという情報は、タチの悪いものも時に呼び込むから、防衛手段としてその種の心得的な情報は、常に一定の需要がありそう。

 

得してるように見える人から、金銀財宝を毟り取っても毟り取る側の良心はさほど痛まない。それが棚からボタ餅であれば、なおさら。だから、“一見すると棚からボタ餅”にしか見えないものをしょってるように見える人は、振舞いに気を配って、モラルやマナーに気を使う。棚からボタ餅を毟り取られ、身ぐるみ剥がされたらイヤだから。

 

モラルやマナーを尊重し、振舞いに気を使うのは、“一見すると棚からボタ餅”を減らさないため、有効に使うため。なのに、“一見すると棚からボタ餅”にしか見えないものだから、遠慮なく棚からボタ餅めがけて、タチの悪いものが寄ってくる。

 

モラルやマナーを尊重する、道徳的なものを嫌うのは、どう考えても非道徳なもの。モラルハザードを気にしない方。

 

モラルハザードを気にしない方から、モラルやマナーを尊重する方が一方的な攻撃を受けたら、ひとたまりもない。とはいえ“一見すると棚からボタ餅”を減らさず有効に使うためには、モラルやマナーは欠かせないから、道徳的態度を崩すわけにはいかない。

 

“一見すると棚からボタ餅”は、どこまでもあくまでもモラルやマナーで守るしかない。という時に、“一見すると棚からボタ餅”めがけて一方的に攻撃してくるモラルハザードを気にしないものに対峙するのは、“一見すると棚からボタ餅”の恩恵からは遠いものになる。

 

三者が登場するのは、そういう時。

 

呉越同舟は、反目しながらも協調する場合を言うのであって、一方が一方を盲目的に攻撃したり利用したりする場合には言わないし使わない。呉越同舟と言いたいがためだけに“同じ“になろうとしても、どちらかが”同じ“になることをあくまで拒むのなら、成立しない。

 

モラルハザードを気にしない方は、モラルやマナーを尊重する方からは十二分に警戒される。警戒されるから、モラルハザードを気にしない方がモラルやマナーを尊重する方と同じになろうとしても、どこまでいっても拒まれる。

 

出世払いで借りたお金、返すのは出世しない方で、出世した方は借りたお金のことなんて知らんぷり。いつだって身代わりとして借金を返しているのは出世しない方で、出世する方はとっとと追い掛けて来られない場所まで逃げていく。借金を返すのは何しろ出世しない方だから、いつまでたっても借金が減るわけない。

 

という時は、モラルハザードを気にせず借金を重ね、モラルハザードを気にせず逃亡する相手をどこまでも追い掛けて、ニコニコ現金払いで借金返させるのが一番よな。何しろ出世する方なんだら、借金だってガンガン返せるはず。