クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

不経済

いい大人がわりと必死に突進してゆく。

 

その先には、おもちゃの電車が大人を乗せて走ってた。お子様は学校その他に行ってる時間、週末はどうせお子様でいっぱいになるに決まってる。お子様がいない時間帯を狙って、童心にかえった大人が楽しそうに使ってると、ほのぼの。

 

大人が喜ぶは、決してアダルティと同義じゃない。

 

東インド会社に満鉄。なーんでこんなテーマに惹かれるんだろう???と、自問自答して出てきた答えは「植民地」と「外部不経済」。

 

客が行列作って待っていても、知らんぷり。従業員が疲弊していても知らんぷりできるのは、でかした!よくやった!と褒めて欲しい相手は別にいるから。だったら、フトコロに入れた内側の利益はもちろん不利益にはより大きな関心を払うけれど、フトコロに入ってこないものや入れない外側の不利益には知らんぷりできる。

 

客も従業員も外部、経済的植民地に属していたら、その利益も不利益も、考慮なんてする必要もないか最少で済む。

 

新興だから成長力は旺盛だけど、財政は安定しない。安定してないから、不経済をフトコロに入れた内側に重税というカタチで押し付けた途端、旧勢力サイドに寝返られる恐れでもあったら、うっかり不経済を内側に押し付けるわけにはいかない。

 

新旧がせめぎあっていて、いつ守旧派が盛り返すかわからない。微妙なバランスを絶妙なバランスに変えて、身軽だけど成長は存分に謳歌したかったら不経済は外部に押し付ければいいからの植民地経営かな、と。そんなに単純なものではないものを敢えて単純化すれば、そんな感じ?

 

取引きする相手の利益も不利益も考慮する必要がないのは、共通項を持たない相手。

 

現代のように便利じゃない時代に見知らぬ土地を旅する、あるいは開拓でもする際に、頼りになったり道しるべになるのは本来共通項のある相手。例えば宗教のように、信じているものが同じだと合意に至りやすい。商売人だったら、商売という共通項があるからやっぱり合意に至りやすくて面倒もない。

 

面倒のない旅、面倒ごとを極力避けて開拓でもしようと思ったら、合意に至りやすい相手を選ぶか道しるべにする。

 

信じているものがそもそも違い、習慣その他にもまったく共通項が見られない新天地をめざすのは、だから利益も不利益も考慮することなく不経済を押し付けるため。加害意識も薄くなり、ついでに啓蒙の衣を纏ってお近づきになれば、近代化に貢献でもしたという大義も手に入る。

 

啓蒙といったって、本当に必要なことなんて教えないし、簡単に教えてくれるわけがない。

 

外部不経済を押し付けて支配する気満々、安い労働力として使い倒す気満々の相手に、対等な扱いを期待するのは単なる幻想。植民地経営に乗り出した集団のなかには、善人だっていたに違いないけれど、個々の善悪は集団になるとわからない。

 

イギリス東インド会社の場合、最初は完全にソトだったインドの地が、徴税権を得て内政にも関与するようになって徐々にウチ化してゆき、最終的には正式にイギリスの植民地になって、ソトからウチへの過程をたどる。

 

満鉄の場合は、どちらかというとウチという立ち位置から始まり、パイを増やす前にパイの分け前で揉めて空中分解し、ソトへの過程をたどる。

 

まったくの白紙から考えられるほど知識は豊富じゃないから、どうしても知識を披露してくれる人の史観に寄ってしまうんだけど。

 

フトコロには入れたいけど、不経済は押し付けたままでいたい。

 

というそもそも歪な関係が、破綻にいたった過程を検証すると次回に生きる。不経済は押し付けられたまま。理不尽な要求に対しても言いなりだったら、植民地とちっとも変わらない。望んでもないのに、壮大な社会実験場を強引に提供させられていたら、植民地と読み替えても差し支えない。

 

最初から欲得づくで近付いていったくせに、今さら信義ヅラすんな。

 

不経済を押し付けられた植民地サイド史観だったら、こういう反発がある方が自然で、あって当然。あって当然の反応がなかったら、不自然な状態にあるってこと。富の蓄積が、一体どれほどあっていつまで不自然が続けられるのか。不経済を押し付け続けるのなら、試してる。

 

新興国が、逆立ちしたって出てこない富をしこたま貯め込んでるのなら、おともだち、お近づきになった方が得だもの。