クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

何も足さない何も引かない

着倒れ、食い倒れ、履き倒れは、それぞれ京都・大阪・神戸の気風を表したもの。それぞれのものにお金使い過ぎて破綻しがち、という意味合い。

 

京都の人は着るものにお金掛け過ぎて、大阪の人は食べ物にお金掛け過ぎて、神戸の人は履き物にお金掛け過ぎるとはいうものの、それぞれ地場産業と結びついてるから、実は結構なブラックジョーク。

 

札幌らしさと言われても、思いつくのは「降雪量がやたら滅多と多い都市」というイメージで、札幌の地場産業と言われてロコの人は一体何をイメージするのか。そもそもの「らしさ」に意思統一が図れてなかったら、足すものも引くものもわかりゃしない。

 

京都の大山崎にあるという、聴竹居。

 

和洋折衷なモダンな建物で、随所に先進的な仕組みを施している興味深い実験住宅。西洋建築をそのまま取り入れるのではなく、従来からある和風建築と融合した、オリジナル住宅に向けての取組みだから、実験なんすかね。

 

いろいろ工夫があるなかで、最も感心するのは通気口を設けて家の中を風が通り抜けるようにし、蒸し暑い京都の夏でも過ごしやすくなっているところ。風が抜ける仕組みによって、冬は温められた室内の空気を循環させるようになっていたはず。うろ覚えだけど。

 

もともとある緑豊かな自然環境が利用できれば、後付けの空調はいらない。暑いからと空調を遠慮なく使うと、今度は排熱で周辺一帯の温度も上がってしまうから、個別最適が全体最適を損ねてしまう。

 

個別最適と全体最適が調和する、設計者の高い志から生まれた工夫に、脳内へぇボタンも連打されまくり。

 

かといって、全体への遠慮がまさって空調を控えるようになると、今度は熱中症の心配が浮上してくるのが、現代の建物が建て込んだ都市の悩みでもあって。そもそも20階の窓を開けて、風を通すわけにもいくわけなし。

 

個別最適と全体最適は対立しがち。

 

賑わってる場所があれば、その場所をちょっとづつ拡大あるいは延伸していくと、連続して賑わうことになって地域全体が盛り上がる。というのは、よくわかってるんだけどさ。

 

札幌で言えば、例えば狸小路商店街大通公園。そもそも東西に長いから、いくらでも伸ばしようがある。

 

狸小路商店街は、近頃は観光客で賑わうようになった、アーケードのおかげで真冬でも気にせず出歩ける希少な場所。商店街のそれぞれの東西の端には、ニューフェイスのお店が増えている。国内外の観光客を取り込みつつ成長していって、その「端」が、例えば多数の観光客を受け入れ可能な大規模ホテルまでつながると、地域の盛り上がりにも拍車がかかる。

 

暮らすように旅したい個人旅行志向な人も、何も生活感あふれすぎる場所を歩きたいわけではなし。適度に賑わっていれば、ロコ以外の人間も歩きやすくて買い物しやすい。

 

歩きやすくて買い物しやすい場所に、ロコ以外の人も遠慮なく入れる場所といえば、まずは名の知られた大規模店。大規模店が橋頭堡となって、ロコ以外の人とよりローカルなものとの橋渡し役を、近頃は兼ねている。

 

コンビニやスーパーにある、ローカルブランドなら、ロコ以外の人も遠慮なく手に取れるから。

 

大規模ホテルには、たいてい周辺の主要観光地をめぐるバスが用意されているけれど、治安や言葉に問題がなければ、旅慣れた人ほど自分で回りたいと思うもの。不利益が大きそうな時は、バスを選ぶという合理的選択くらいしてる。

 

その街の未来は、街とともに生きるしかない人たちほど、真剣に考えている。

 

昼夜人口に差があり過ぎて、働くために通う場所・学ぶために通う場所あるいは暮らすための場所と専門分化し過ぎると、それ以外の人にとっては住みにくくなって、縮小局面でのダメージが大きくなり過ぎる。

 

街づくりや賑わい創出。賑わいを持続させるために、必要なものは何なのか。一見不必要に見えるものは、いち私企業が例外を認めてもらうためにやっていること。ということも、あるかもしれないわな。先例もあることだし。

 

世の中にはいろんなフェチがあるものだけど、街づくりフェチという人もきっといる。「僕・私が考えた、とってもステキな街」が実現するまで、何度でもトライ&エラーを繰り返し、そのために移動も厭わないような。

 

人が阻害要因となって思うようにステキ街づくりが進まないなら、人が少ない街に移動するに限るわな。人が居なきゃ街じゃないけど、街づくりがしたかったらさ。

 

お休みなさーい。