クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

フェイクとオリジナル

フェイクかそれともオリジナルか。ニセモノを作る技術は日々向上しているらしく、おっかないったらありゃしない。

 

それがヒトだったら、オリジナルとコピー(あるいはクローン)を分けるのは、一緒に過去を振り返れるかどうか。細かなこともあらゆることも、もう覚えていられないような状態だったら、一緒に振り返れないのもしょうがない。

 

逆に、あらゆることを覚えているには幼な過ぎても、やっぱり一緒に振り返れなくてもしょうがない。そのどちらでもないのに、忘れようもないことを思い出せないようだったら、ちょっとアレ。

 

オリジナルは知っている。コピー(あるいはクローン)は知らない。

 

ふとした時に感じる違和感は意外と侮れず、意外と侮れないから、違和感が積もり積もると正真正銘のオリジナルであっても、オリジナルを証明することが難しくなる。

 

過去の交友関係を振り返った時、どうしようもないほど内気ではにかみ屋。というタイプは、どう考えても思いつかない。類は友を呼ぶ側面もあるけれど、それよりも圧倒的に数の問題の方が大きい。「我を張る」ことにためらないも後ろめたさも感じないタイプが、もしかしたら日本の有史上もっとも多く生息してる。そういう年代だから。

 

だから一見すると御しやすそうで、事実些末なことに対してはこだわらないけれど、どうしても譲れない点に関してだけは、がんとして譲らない。そういうタイプが、どの年代を通じても最も多く生息してるような気がしてしょうがない。

 

個人に対するプレッシャーがさして強くもなく、セーフティネットが盤石であったらきっと、がんとして譲れないものに対しては我を張り通すような気質は生まれないし育たない。

 

共通点といえば「我を張る」、どうしても譲れない点に関してだけは、がんとして譲らないという一点しかなく、バックグラウンドはさまざま。住んでいるところや職業、性格その他はバラバラであっても、基本的に「我を張る」ことにかけては突出している。

 

そんな各地に散らばった特異点が、申し合わせた気配もまったくなく個人の自由意思としか思えないのに、示し合わせたように絶対に何があっても譲らないと各々が我を張り通す。そんな事態がもしあったとすれば、譲れないと彼ら特異点が我を張り通す先には一体何があるのかと、謎にも思うってもの。

 

ものすごく気持ち悪いことはサラッとしかアナウンスされず、どうでもいいじゃんと思われがちなことばかり盛大にアナウンスされる。そんな時は、どう考えてもものすごく気持ち悪いことに対する目くらましなのかも。

 

ものすごく気持ち悪いんだけど、どう考えても既視感がある。局地や局所でのことじゃないということは、全体を俯瞰してる人の方がきっと、先に気付いてる。