クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

不自然に任せると不自然

そもそも感情の振れ幅が大きな激情家で、自身でも激情を持て余すような人が好むのは、感情が揺さぶられない場所。何があっても能面のように無表情で、一見感情が欠落したかのように見えてもそれは、後天的に獲得した仮面かも。

 

巨大な権力持ちが、うっかり感情が命ずるままに動いたら、巨大人災メーカーとなって巨大災害だって引き起こしかねない。

 

大噴火のあとには、黒い石がゴーロゴロ。火砕流や溶岩流が冷えて固まったあとにはこの世のものとは思えない奇観が生まれ、物言わぬ石の大群は、ことばに代わって災害の激しさを物語る。ことばなんて、いらない。

 

肩の上にたくさんの人の生活や人生をのせた権力者が、感情のままに暴走したあとに生まれるのも、そんな景色かも。振り落とされたたくさんの人の人生も生活も、冷えて固まって黒い石となり、沈黙したまま動かない。

 

冷えて固まったまま動かない。黒い石の群れを前にすれば、どんな激情だってたちまち冷める。冷却効果抜群。逆に、冷えて固まった黒い石を前に、意気揚々と得意げだったら、何なの、この人?と思うのが自然な反応。

 

人災よりも、地震に洪水や台風といった自然災害の方が被害は大きくなるけれど、天災に人災が加算されると、千年に一度クラスの大災害になった。千年に一度クラスの天災に人災が加算されると、やってくるのは千年に一度クラスを超える未知数の大災害で、そうなったら固有の歴史も文化もすっかり流される。

 

天災発生時には人災が重ならないよう環境を整えるのは、防災を考える人たちのお仕事で、天災と人災が重なるよう積極的に仕向けるのは、どう考えても防災側のお仕事じゃない。

 

災いが大きくなっても他人事のように受け入れられるのは、他人事だからと思うのが自然で、固有の文化と歴史がすっかり流されるのを待ってるせいだからと思うのも自然。

 

怒らないことに決めた人は我慢強くて、感情を露わにしない代わりに自身の感情に殺されがち。押し潰されがちと言い換えてもいいんだけど。我慢を強いられた身体の方が先に動かなくなって、動かなくなった体を動かすのは、トレーニング。

 

無数のルールで自身を縛り、感情の暴走に備えて幾つものストッパーをかけて激情を封印したあとは、感情のままに振る舞いながらも激情を表に出さずに済む立ち居振る舞いを学ぶとき。学習しながら、ストッパーも外していく。

 

保身や計算に基づいて感情を小出しにし、激情家のフリが上手にできるようになったら、その人はもう感情に引きずられているとは言えない。我を失ったという言い訳も、もう通用しない。

 

情のない単なる冷たい人に人はついてこないし、動かせない。冷えて固まった黒い石を前に得意げな人の薄情さを看破してるから、黒い石の群れは沈黙してる。

 

感情を表に出さないはずの人が、私情も露わに何かに感情をぶつけ始めたら変化の兆し。感情のはけ口を求める人と、感情のはけ口をぶつける先が変わったってことだから。

 

貯めるだけ貯めこんでからしか怒りはぶつけられず、怒りが向かう先も一ヶ所しかなかったら巨大災害になりがち。感情を表に出してはいけないはずの人は、そもそもどこに怒りのような感情をぶつければいいのかわからないから、貯めこみがち。

 

ここならぶつけてもいいんだと感情のはけ口を見つけ、安心して何度もぶつけてくるのは、結局甘えてる。無理な背伸びと窮屈な抑圧と。成長過程で過干渉が激しいと、あらゆる面でアンバランスが顔を出すのかも。かもかも。自然にまかせてのーびのびな状態を、後天的に身に着けるのは大変そ。