クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

30年

その世界には十二の国があり、それぞれの国には王と麒麟(きりん)と呼ばれる存在がいる。

 

十二国あるけれど、主役級として扱われるのは超大国「ではない方」。

 

女王が即位すると国が乱れる国、慶。武人として名高い強い王と麒麟にしては珍しい”黒麒”と呼ばれる存在を擁する戴。超大国の奏に次いで長命な国、雁。そして、富裕な豪商の家を飛び出し幼いながらも女王となった存在を有する恭については長編が存在する。

 

玉座をめぐって争う。その種の物語は珍しくないけれど、『十二国記』の特徴は”麒麟”という慈悲を象徴する存在を置いたこと。

 

人の姿でいる時はおおむね金の髪を持ち、麒麟という獣に変身した時は何よりも速く移動することができるけれど、慈悲を象徴するだけあって血、流血沙汰を厭う。厭うだけでなく病み、麒麟が病むと王も乱心し始めて国が傾く。

 

そういう世界で、長命かつ超大国は軍を擁してきっとそれなりの軍事力もあるには違いないけれど、流血沙汰とは縁がないか被害や影響も極少かない。

 

何しろ他国に武力で攻め入った王は、ことごとく滅ぶ。それも徹底的かつ壊滅的にという理(ことわり)が存在するからで、十二国記の世界では王や麒麟よりも上位に”天”がある。

 

理の前に天は無情で、割と容赦なく描写されている。”天災”ということばがあるけれど、雨降って!で雨が降り、雨止んで!で雨が止めば苦労しない。

 

降り続く雨を前に雨止んでとただ祈るしかないのは無力で、無力ではない王や麒麟は災害に強い国造りをめざす。

 

軍は武力で官は知力で国の統治に携わるけれど、他国に侵攻するための武力が存在しない世界で、武力は主に治安維持に使われる。

 

治安を脅かすのは災害や人間だけでなく、妖魔という人に危害を与える存在がいて、麒麟が病んだり王が乱心すると妖魔が跋扈する。という世界観も、ファンタジックでありつつ現実社会をこっそり皮肉ってるよう。

 

流血を厭い、慈悲を象徴する麒麟は人間の姿から四つ足の獣の姿にも変化し、”人の目線”よりも低い目線から世界を見ることができる。本来は雲上人である麒麟が、人の目線よりも低い目線で世界を見ることができるのは王のため。

 

麒麟も人ではないから妖魔の一種ではあるけれど、人に危害を加えるのが妖魔でキリンはそんなことしない。

 

慈悲を象徴する存在が麒麟で、麒麟が王を選び、麒麟は二王に仕えることはあっても、王の生涯に寄り添う麒麟は一人だけ。

 

慈悲という存在が国を左右し、麒麟と王の関係が良好であるほど国は安定して続く。という世界観は、玉座をめぐるあまたの物語のなかではきっと異色で、異色だけど慈悲という存在なしで玉座をめぐって争い国が乱れると、世界人口はたちまち激減するだろうという点ではとても現実的。

 

時に妖魔が現れ、騎獣という生き物に乗って人が飛行し、尋常ではない何らかの能力を発揮する人が登場しても、描いているのはあくまで人との関係性で、超人技や珍プレーを描くことが目的じゃない。

 

そもそも人がいなければ、玉座をめぐって争いが生まれることもない。

 

十二国中の超大国である奏は、恭王即位にあたって後ろ盾となり、第二の大国である雁は、偽王を討っての慶王即位に力を貸す。大国が、大国ではない国を助けるのは大国だから。

 

比類するものも比肩するものもない。そういう状態になった時、最も恐れるべきは自壊や自滅だから、好敵手あるいは敵となりうる存在を育てておくのも生存戦略の一環。

 

そして比類するものも比肩するものもないと形容される大国が傾いた時は、小国が傾いた時よりも災いは大きくなり、何しろ前例がないだけに前例のない事態が起こるんだろう。

 

十二国記が発売されてからすでに30年。主要な読者層だった女子高生もすでに五十路に差し掛かかる頃。架空の世界の登場人物は、何しろ年を取らないから見た目は変わらず女子高生の頃のまま。

 

3年ならいざ知らず、30年続いた国はそれなりに老成するけれど、その10倍続いた国と比べれば、やっぱりいろいろ足りないものがある。

 

比類するものも比肩するものもない超大国になると、国がしっかりしているから諸国を放浪するのがお仕事のような風来坊だっている。

 

慈悲の象徴である麒麟の慈悲が正しく発動する限り麒麟も病むことなく健やかで、健やかな麒麟とともに王が国を率いている限り国が傾くこともなく健やかでいられる。という世界が素晴らしく思えるのはきっと、健やかではない国から見た時。

 

慈悲という存在が、国の永続性を左右する。

 

そういう世界観が魅力的に映るのは、可哀そうやお気の毒にと思う人がもっとたくさんいれば続けられたのに。という経験を経たあとで、長く続いているものと慈悲のありようは、きっと無関係ではないはず。