クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

型を観る

モンテクリスト伯を簡潔にまとめると、“人に好かれる前途有望な青年が、奸計によって濡れ衣を着せられ牢獄に送られて、奇跡的に脱獄を果たしたあとで、陥れた相手に復讐を遂げていく”復讐譚。

 

復讐に乗り出すまでには相応の時間が経ち、その間に主人公エドモン・ダンテスを陥れた人達はそれぞれ出世している。本来なら手の出しようのない相手に立ち向かっていくのが、後半の見せ場で見せ所。前半は、好青年が訳も分からないままただひたすら辛い目に遭わされるので、読者も辛い。

 

主人公が訳も分からず辛い目に遭わされるといえば、『十二国記』の第一巻もそうで、名作は名作を踏襲するものなのかも。

 

シェイクスピアアーサー王。古典には型があり、古典を踏襲して新しい何かを生み出す方が、圧倒的に楽。だから、新しい何かを生み出す必要があると古典に通じるようになり、古典に通じているとどの型を踏襲しているのかも見破りやすくなって、簡単には動じなくなるのかも。

 

古典に通じているはずの人達が、“型なし”と呼ぶならそれはまったくの新作で、型が出尽くしたあとに真っさらな新作を見つけると、感動するよりも違う発想や異なる思考過程にかえって恐れを抱きそう。

 

発想も思考も異なるなら、文化が違う。

 

違う文化から来たものを同じ文化の中に並べると、差が際立って違いもより明らかになる。

 

辛い目に遭わされた前途有望な若者も、時が経てば名誉が回復して、有望だった前途にふさわしい後半生を送って幸せになる。というモンテクリスト伯のストーリーは、革命やナポレオンに翻弄された時代の気分に、恐らくは願望も込みでピッタリ合っていたから好まれた。

 

好まれたストーリーの型を壊して台無しにする“型なし”は、古いも新しいもなくただの破壊衝動で、建設的に新しい何かを始めようとするものと一緒に並べると、きっとその違いがよくわかる。

実は地続き

マルクス・アウレリウス晩年の時代って、どんなものかしら?

 

と思った時に見る『グラディエーター』で、時代を見たい時に見ているのはストーリーでもアクターでもなく時代に対する解釈。

 

グラディエーターに身を堕とすマキシマスが、将軍だった時に防寒と恐らくは身分を表すために身に纏っている毛皮は、狐かそれとも狼か。防寒具として登場する毛皮には、ヒョウ柄っぽいものもあり、映画にはライオンだって登場するけどそもそもローマにはライオンもヒョウもいない。

 

ローマとアフリカ(北アフリカ)の歴史は地続きで、連続していることが細部から見て取れる。

 

衣装や装飾品に、武器や武具。遺跡から出土したものや美術芸術品として現代にも伝わるものは再現しやすいけれど、歴史的資料に乏しいものは、再現できない。何を食べていたんだろうと思っても、そこは曖昧。

 

ローマ時代の遺構の中でも、コロッセウムという非日常空間を舞台に選ぶと、必然的に日常は遠くなる。

 

グラディエーターとなったマキシマスが、真の身分とその名を明かした時、剣闘士仲間から歓呼でもって迎えられる。そんなシーンがあるけれど、ナポレオンがエルバ島を脱出してパリに戻ってきた時、彼を迎えた大衆の反応もそんなものだったんじゃないかと思う。

 

マキシマスが居なければ、見世物として無残に殺されていただけ。戦い方と勝ち方を教えてくれた。だから、生き残れた。そうした人物を間近にした時、大衆は熱狂する。

 

王の首は落とせても、ナポレオンの首は落とせない。

 

ワーテルローの戦いに負けたあと、今度はセントヘレナ島に再び島流しとなり、同時代に対する影響力が薄れるのを待つかのように、死ぬまで閉じ込められた。

 

英雄の首を刎ねたという反感は、バラバラになりがちな大衆を一致団結させるのに十分で、ナポレオン後は王政復古という既定路線が修正を迫られる。

 

創作意欲を刺激する人物が居ると、勧善懲悪というわかりやすいストーリーが作りやすくなり、ストーリーに乗せられた大衆が動くと時代も動かしやすくなる。

 

平民から皇帝に成り上がって失脚した。王の首は刎ねられ、平民が皇帝となり全ヨーロッパとフランスが闘っていた時。イギリスは何をやっていたかというと、植民地政策。

 

歴史の表舞台で華々しく活躍する絵になる人物を送り出す代わりに、原材料や労働力の調達先や販路として、粛々と植民地を作っていた。販路が大きな市場となった現在ではますます絵になり辛く、その真相が絵になるのはきっと今よりもっと先のこと。

 

絵になる=エンタメになるをソフト路線とすれば、絵にならない=エンタメに頼らないはハード路線。お金の作り方や生まれ方が異なると、社会のありようも異なるのかも。

 

華美や装飾性を求めず泊まることに特化したビジネスホテルは、部屋の造りが簡素だからきっとお掃除もしやすい。お掃除ロボットが動きやすいのは、動線がシンプルで簡素な方で、ロボットが動きやすいように動線を設定するなら、そもそもロボットに優しい。

 

掃除ロボットのことを考えない動線では、お掃除ロボットも本来の性能を発揮できず、稼働させてもキレイにはならない。絵になることを主眼に華美や装飾性に走ると、お掃除ロボットには優しくない可動域が生まれる。

 

絵にならないものを絵にするハードルが高いのは、路線変更のハードルがそもそも高いからで、高いハードルを越えて絵になったものは、観賞価値も相応に高くなる。

 

エンディングを美しくするためにマキシマスは美しく死ぬ。エンディング=引き際がみっともなくて鑑賞に耐えないと神格化できない。だから、真に脅威となる者のエンディングはできるだけみっともなくなるよう貶めるのは、恐れの裏返しなんだと思う。

上位互換と下位互換

下位互換は量産品にしやすく、上位互換は量産できないから希少品となる。

 

ロミオとジュリエットといえば、悲恋物の代名詞。

 

シェイクスピア原作のオリジナルに、何らかの形で触れたことがなくても、敵同士の家に生まれた息子と娘が恋に落ち、ハッピーではない終わり方をする。くらいの知識はありそうなもの。

 

ところで現代で、敵同士や犬猿の仲をシェイクスピアの時代と同じような名門の家で見つけようとすると、難しい。

 

名門あるいは権門の家は、名門あるいは権門という階層=クラスタを補強するために、逸脱できないよう情と利害の双方向から絡み取られがち、クラスタに組み込まれがちで、一強支配のワントップになりがち。

 

だから、犬猿の仲や敵同士というツートップが成り立つのは、名門や権門を構成するクラスタが一方向ではない、少なくとも2種類以上ある状況ということになる。そして名門や権門にルーツや成り立ちの異なるツートップ集団が存在しやすいのは、だから社会の混乱期ということになる。

 

エストサイド物語は、ロミオとジュリエットを対立する不良グループから誕生させたから、新しい時代にも受け入れられた。

 

血で血を洗うような抗争は、名門や権門からはほど遠い。

 

社会が安定して、名門や権門を構成するクラスタが一方向、学歴や収入に向かうと“金持ち喧嘩せず”で、持てる者同士がわかりやすく殴り合う姿は見えなくなる。何しろ名門や権門でいるためには失ってはならないものがあるからで、露骨に殴り合うのは失うものがない不良グループ。

 

という、ウエストサイド物語当時の暗黙の了解を、ロミオとジュリエットという素材に落とし込んで、誰にでも見えるしわかりやすい形にしたから懐古趣味や復古趣味の枠を超えて、ウエストサイド物語という新しい素材が誕生した。

 

エストサイド物語は、抗争を繰り返す反社会性と親和性の高いファミリーのもとに生まれた男女が恋に落ち、ハッピーではない終わり方をする素材。だと定義すると、ロミオとジュリエットに縛られず、ウエストサイド物語という素材に落とし込んだアレンジが可能になる。

 

お金だけではない、名声や威信を背負った持てる者は、そう簡単に喧嘩しないしできない。

 

持たざる者は、おやつにするケーキやアイスクリーム、一瞬でなくなってしまうものをめぐってでさえ殴り合える。殴り合いの構図が簡単に作れるから量産も可能。

 

その一方で、本来殴り合うはずのない持てる者同士が殴り合うにはまず舞台が重要で、舞台の準備ができないと殴り合いも始まらない。だから量産は不可能で希少。

 

影響力を発揮する、“大きな声”が備わったツールが限られていた一時代前に、英語圏でベストセラーを連発したジェフリー・アーチャーという作家は、『ケインとアベル』のあとに『ロスノフスキ家の娘』を出版した。

 

アメリカ史上初の女性大統領が誕生する壮大なストーリーで、下敷きはロミオとジュリエット

 

銀のスプーンを握って生まれた名門出身、名家の銀行家の息子と、第二次大戦の生き残りで移民から成功した実業家の娘が恋に落ちる。この二人の恋は残念ながら悲しい結末を迎えるけれど、悲しい出来事のあと、ロスノフスキ家の娘フロレンティナは米国史上初の女性大統領への道を歩み出す。

 

敵同士から生まれた悲恋(でも幸せ成分いっぱい)が、最終的には当時の最高権力への道に続いたという点で、ロミオとジュリエットのパターンを踏襲したあらゆるコピーの中でも最高級の上位互換だと今でも思ってる。

 

原作=オリジナルに忠実にという原理主義に照らすと邪道ではあっても、作り話とはいえ夢いっぱいで、前例にとらわれずに未来の方を向いている。夢いっぱいで未来志向だから、夢破れた多数からは快く思われず、今では日本語で読むことは難しいのかも。

 

実業の世界で成功した、もともとは悲惨な過去持ちの成功者と、名門出身という恵まれた出自を存分に生かして才能を伸ばした成功者が、ツートップとして並び立つのは大戦後の混乱期という時代。

 

舞台が整わないとツートップを成立させることさえ難しく、安定の副産物としてワントップで一強ということになるのかも。かもかも。

 

社会の混乱期に、”悲惨な生い立ち”という商品価値を最大限に利用して成功した人は、だから最初からその構図を理解しているお利口さん。ということになる。

情報量の多いお弁当

お金を持ってないわけではない人達が、財布のひもをピッタリ閉じるのは、払ったお金が結局は誰を豊かにしているのかわからなくなった時。

 

とある日の朝ご飯、前の日に作り置きしておいたお弁当。

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お米は北海道産。新米が出回り始める頃だから、精米日が多少古くても気にしない。そのココロは、“防ごう在庫の積み増し、積み上がった在庫は最終的にどこに行く?”そんな感じ。

 

ご飯の上には、蕪の葉のつくだ煮(自作)。蕪の葉は茎と葉に分け使いやすい大きさにカットして、冷凍庫に常備している。一緒につくだ煮にしたジャコもやっぱり北海道産で、産地に特にこだわりはなかったけれど、決め手は“天日干し”というコピー。

 

蕪とカボチャは、農産物直売所で買ったもの。消費地から離れ、生産者の近くに行くほど安くなる。量が必要な時は、生産地まで足を延ばすに限る。

 

鮭は様似産。シーズン入りしたせいか、大きめの切り身が3切れで税込み699円が100円引きで、とってもお買い得だった。野菜くずやハーブと一緒にスープ煮にして、一切れ×2はタルタルソースで食べ、残りはお弁当のおかずとほぐしてケッパーやマヨネーズとあえてトーストのお供に。

 

タルタルソースは、作り置きのピクルスを細かくカットして、ゆで卵・マヨネーズ・ハーブソルトその他で作った簡単なもの。簡単なものでも自作に慣れていると、特に面倒は感じない。

 

スーパーでたまたま見つけた冬瓜は、最初はあっさり和風だしで煮物にし、残った煮物にやっぱり北海道産鶏ひき肉のそぼろあんをかけた。

 

冬瓜や口直しの柿はさすがに北海道産ではないけれど、その気になればオール北海道産で一食作るのは、わりと簡単。生産から出荷まで北海道産なのか。それとも、最終出荷地が北海道産なのかまではわからないけれど、生産地と消費地が近いと輸送コストは割安。

 

海産物はもちろん。じゃがいも、とうもろこし、メロンにアスパラガス。人によってはタマネギ。北海道産ブランドが確立している農水産物は多々あれど、海外でも通用する北海道産ブランドの農水産物となると、何になるのかよくわからない。

 

陸運・海運・空運。北海道産の農水産物を出荷したあと、農水産物よりも高価なものを運んで戻ってくるのか、それとも物々交換で、その地方ではたくさん獲れて、量には困らないものをのせて戻ってくるのか。さて、どうなんでしょう。

 

お互い量には困らないものが行き来していると物々交換で、欲しいものと交換できるなら出荷したものは貨幣作物として機能している。

 

例えば養殖技術や鮮度保持、あるいはブランドの作り方などなど。今より高価な何かと交換して手に入れたものであったら、生産地が遠くても消費には問題なし。

 

量が必要だから日常使いするものと、贅沢品は別。自分では作れないし、調達するのさえ難しいものだからご馳走になって、ご馳走だから相応の対価にも納得する。

 

出荷した、貴重なはずの貨幣作物で手に入ったもの。あるいは対価や何かに納得がいかないと、財布のひもはピッタリ閉じがち。

 

お弁当一個を買うのに、いつもそこまで考えているわけではないけれど。

 

自作にも自力で調達にも慣れると、注文のうるさい消費者を常に満足させ続けるの難しいとすぐわかる。だから飲食業よりも別ルートで生計を立てる方が、ハードルが低そうに見えるのが値上がりの続く現在地点なのかも。かもかも。

 

輸送コストまで気にするならトレーサビリティとワンセットで、トレースできないものは圏外となる。それは別に、食品に限ったことでもなし。

加速のために必要なもの

簡単に出来そうなレシピがあったので、自分で作ってみたら予想以上に簡単に作れた“いか飯”。使う餅米の量は驚くほど少ないのに、ちゃんとふっくら“いか飯”に形になった。

 

いかと餅米の重量比は、9:1か9.5:0.5くらい。

 

握り寿司のネタとシャリの黄金比はどうなっているのか知らないけれど、ネタに対してシャリが多過ぎると見た目も味もアンバランスになる。

 

まず容れ物がある。売り物だったら、折箱やケース。作るんだったら、鍋や鍋状のもの。容れ物に合わせて決めた黄金比は、当たり前だけど容れ物が変わると崩れて、見た目も味も決まらなくなる。

 

容れ物の大きさには左右されず、大きくなっても小さくなってもいつでもきっちり黄金比を保てるのなら、理論化して数値化できている。お醤油とお酒は1:1で、各大さじ1。という風に理論化して数値化できていると、コピーもアレンジも自在になる。

 

コピーとアレンジを何通りも繰り返す場では、理論化して数値化する過程が必須。理論化も数値化もできないものは、アレンジどころかそもそもコピーできない。

 

コピーされない、改変されないものをめざした時。そもそも理論化も数値化もできない状態をめざすしかなくなって、単品では完璧にバランスが取れていても、全体では調和に欠けて著しくアンバランス。という有り様になるのかも。かもかも。

 

成熟期に入った各種サービスが、時に“終わコン”、終わったコンテンツ呼ばわりされるのは、主に加速装置という側面からみたものだと勝手に思ってる。

 

一が万や千になるまで待ってられない時に、一が万や千になるのを可能にして時間が節約できるから加速装置で、加速装置が加速装置として機能するために必要なのは、万や千の余剰。

 

余剰がないと、加速は続かずに失速する。

 

理論化して数値化できていると、コピーもアレンジも自由自在。計算済みだから、加速するはずだった。なのに失速したのなら、わざと。余剰を増やすのも減らすのも自由自在だから、できること。

 

余剰を余剰と感じさせることもなく次へと向かうなら、余剰が出るのは織り込み済み。あるはずの余剰がなくて立ち止まるのなら計算外で、どちらが計画的なのかがよくわかる。

これは古典作品のお話です

先に見初めたのは女の子の方だった。見初められた男の子は、ただ絵を描くのが好きだった。

 

きれいな女の子に会えて絵が描ける。その辺りでは、一番のお金持ちとは信じられないような廃墟同然のお屋敷に、それから男の子は通い出す。

 

女の子でも男の子でもなくなった時、彼らは別々の道を歩き、再会するのは故郷フロリダを遠く離れたニューヨーク。ニューヨークでアーティストとして認められるために、再び絵を描き出したフィンの前に現れたエステラは、フィンをエステラの生きる世界に呼びに来る。

 

エステラやエステラの仲間たちと一緒でも、引け目を感じることはないほどの成功をおさめた時、エステラは再び手の届かない人となる。そしてずっーと昔、まだ男の子だった時に強烈な印象を残した男性と再会したフィンは、思いがけないことを告げられる。

 

それから何年も経ち、パリを経て再び故郷に戻ったフィンは育ての親であるジョーに温かく迎えられる。

 

少年時代に通った、取り壊される予定の屋敷を訪ねてみると、少女だった頃のエステラそっくりな娘を連れたエステラと笑顔で再会し、フィンの旅は一旦終わる。

 

親代わりとなってフィンを育てたのは、姉。彼女は子どもの養育に適切とは言えず、姉の恋人だったジョーと、好きな絵に没頭できる時間がなければ、きっとフィンはもっと違う人間に育っていた。

 

廃墟同然の屋敷も子どもの養育に適切とはいえず(何しろ古くてでかくて手入れが行き届かない)、その屋敷の女主人であるエステラのおば(伯母?叔母?)も、一見すると子どもの養育に適切とは言えない。

 

だけどフィンもエステラも、世間一般とは切り離された場所で過ごすことで、正規の美術教育を受けずにアートに親しんだ。

 

フィンの後見とも言えるエステラのおばにフィンを引き渡したあと、姉はフィンの前から姿を消す。親代わりだった姉は、恋人だった男の元に自分を残して消えた。

 

そういう環境で育ったフィンが、素直に好意と憧れを感じたエステラとともに、本来なら足を踏み入れることのないニューヨークのアートシーンで成功し、仕事をするようになり、生きる糧を生活の糧に変え、屈託などない状態で故郷に戻り、エステラと再会する。

 

という筋書きから、文豪ディケンズの『大いなる遺産』が即座に連想されるのか。AIにでも聞いてみたいところ。

 

ディケンズと言えば、『クリスマス・キャロル』しか知らない。『オリバー・ツィスト』も『二都物語』も、ヴィクトリア朝時代の持たざる者から持てる者へのものの見方に辟易して、あんまり読む気にならなかった。

 

持たざる者の気持ちも持てる者の気持ちも、時代とともに変化するはずだけど、古典作品は描かれた当時のものの見方を固定化して補強しがち。だから古臭いものを古臭いまま再現すると、復古調になって説教臭くなる。

 

舞台を過去に設定することで、現代では素直に言いにくくなったことも言いやすくなる。時代ものにはそういう利点と側面も確かにあるけれど、1998年のグウィネス・パルトローイーサン・ホーク。動画配信が始まる前のハリウッドスターに、言えないことなんてあったの?というのが、1998年版の『大いなる遺産』。

 

文豪の作品をハリウッドが映画にすると、こうなるよという時代の空気が詰まってる。

 

スターを起用して舞台を現代に設定し、持たざる者だった少年が、好意を寄せた女性に導かれて階級移動を果たし、なりたかった者になるという自己実現も果たして故郷に戻ってくる。という(恐らく)原作の骨子そのまんまな構成は、文豪作品へのオマージュというよりは、むしろ『ウエスト・サイド物語』へのオマージュだと思った。

 

クリスマス・キャロル』しか知らないけれど、現実と現実には起こりそうもないこと。虚実の組合せの妙を最大限に利用して、時機にかなった作品(この場合はクリスマス)が作れるような、持たざる多数の大衆というマーケットを見ていたからヴィクトリア朝時代を代表する文豪となったディケンズ

 

彼が1998年に生きてたら、きっとこういう風に作ったんじゃないだろうか。

 

現在を描きながらも過去を描き、同時にその時旬のアクターを起用することで、未来への種も蒔いている。

 

グウィネス・パルトローは、1998年版の『大いなる遺産』のなかで、ナイスバディを披露している。ナイスバディといった性的コンテンツは、往々にしてデジタルとは相性よし。コントロールできない状態では不適切に扱われがちな性的コンテンツを適切に扱おうと思った時、技術は進歩する。だから、未来。

 

今ではユニコーンとなったスマートニュースの最初期には、性的コンテンツを多分に含んだ媒体が、ランキングの上位にいた。あれはサービスが軌道に乗るまでの一時的な現象で、加速装置のなせる業。

 

アクセルを踏み過ぎると乗せた荷物は振り落とされ、ブレーキを踏み過ぎると目的地までたどり着けない。

 

現時点での評価や注目を気にし過ぎると、過去の遺物は残らない。過去の遺物や遺産に重きを置き過ぎると、現時点での評価や注目に届かず未来にたどり着けなくなる。

 

ひとつの作品のなかに、現在・過去・未来を盛り込んで“時間“を閉じ込めると尻尾が長くなってロングテールとなり、時空を超える。

 

早期に何らかの才能を認められて囲い込まれ、ナビゲーターによる試練を経て才能を開花させる囲い地の中だと、時間を閉じ込めやすい。囲い地は才能を囲い込む場所だから、よそ見できないように、二人が出会う場所は廃墟同然の屋敷だった。

 

という解釈にしておくと、お金かけたくないところにはかけない節約志向と合理的精神も薄くなる。真面目にヴィクトリア朝を再現しようと思ったら、先人の遺産を大事に取っておかないと、ムリ。

 

内輪やファミリーの声を聞き過ぎると外まで届かなくなり、素晴らしいオリジナルに触発されて、僕・私の考えるホニャララが量産されて読者や視聴者のような受け手へのサービス精神込みで、オリジナルが侵食されていく。

 

そういう欠陥が露わなのに古典作品のオリジナルにこだわるのは、オリジナルを踏襲したどのバージョンを選ぶのかにも似て、ナンセンス。

 

現代に生きる人に現代に通じる表現で古典が発信できると、時間も才能も囲い地に留めることができて、現在の先へと繋がっていく。

野心が生まれてきたところ。

舞台を一ヶ所に限定し、登場する人物もその場所に出入りするのが自然な人だけにすると、ファミリードラマが出来上がる。

 

舞台が個人宅ならある家族の肖像となり、企業にするとある企業の肖像や消長となり、業界にすると、とある業界の肖像が出来上がる。

 

歴史上の有名人を主人公に据え、有名人が活躍したある時代を描きつつも、親子や兄弟姉妹間での確執や夫婦や夫婦未満の愛憎を語るのにより力こぶが入っていれば、どれほど格調高くても結局はファミリードラマ。

 

時代は十字軍。聖地をめぐって、西と東が激しく争っていた頃。西洋キリスト教社会の雄として、東方イスラム世界のヒーローと戦い世界史上にその名を残したある王様。その父親が主人公となると、日本史上でたとえようとしてもちょっといいサンプルが思いつけない。

 

ざっくり言えば、織田信長上杉謙信武田信玄、その父親くらい?

 

プランタジネット朝のヘンリー2世を主人公に、その妃をキャサリン・ヘップバーンが演じた『冬のライオン』をアビエイターつながりで見た。アビエイター → キャサリン・ヘップバーン → 3度目のオスカー受賞作という発想。

 

プランタジネット朝もフランスのフィリップ王も、世界史上の点でしかない。

 

ジグソーパズルのピースのひとつかふたつ。映画というドラマ仕立て、それも舞台をクリスマスのシノン城に限定し、台詞アリの人物は王族に限ることで、時代背景という面での理解がちょっと進んだ。

 

プランタジネット朝のヘンリー2世は、フランスのいち地方領主に生まれながら、イングランドの王位を相続によって継承し、やっぱりフランスの別の地方領主の娘と結婚することで、さらに領土を拡大した。

 

十字軍の時代。中央集権化がもっとも進んでいるのは、ローマ教皇を頂点としたキリスト教の聖権力組織のはずで、だからローマ・カトリックの総本山から離れるほどに、群雄割拠の戦国時代状態により近付いていく。

 

聖権に対する王権(=俗権力)の領土は、増えることもあれば減ることもあり、イングランドでは王でもフランス領土内ではフランス王の臣下。

 

という複雑な国際情勢のなかで、家長として王として君臨するヘンリー2世もまた複雑。領土が減るのか増えるのか。そもそも複雑な状況をさらに厄介にするのは後継問題で、ファミリードラマがもっとも盛り上がるのは、やっぱり揉め事。

 

エゴが剥き出しになる場面では誰もが鬼気迫る演技で、鬼と怪物はつくづく作りやすいんだと実感する。

 

作りやすいとはいえそこまでやるかというのが素直な感想で、この作品でキャサリン・ヘップバーンがオスカーに輝いたのは、そうでもしないと“鬼”、封じられそうにないじゃん。というくらい、鬼ババアっぷりが凄かった。

 

イングランドでは王、フランス領土内ではフランス王の臣下で、聖権力>俗権力という複雑な状況を、さらに複雑にする後継問題。

 

めいっぱい卑近にして考えると、生家は一戸建て。家土地を合わせるとマンションくらい建つよという立場から、相続によって生家とは離れた場所に200戸超のマンション敷地たっぷりと生家にほど近い一戸建てを得、さらに結婚によって生家にも近く、パリという都会により近い場所の戸建ても手に入れた。

 

相続分と妻の実家と生家を合わせると、100戸規模のマンションくらい(建ぺい率は考慮しない)、今いる場所よりもっと都会に建ちそう。という状況に置き換えるとわかりやすい。

 

合わせれば大規模マンションが建つけれど、交渉につまずくと捕らぬ狸の皮算用で、子孫に美田は残らない。

 

そういう状況で集った家族だから、クリスマスであっても和気あいあいという雰囲気からはほど遠く、最も熱くなるのはそれぞれの取り分について話す時。

 

と、解釈すると、地方のいち領主からイングランド王という大きな舞台で活躍した、ヴァイキングの末裔っぽさが濃厚で、王家といっても権威の高さもへったくれもない。

 

映画内での城内は殺伐としていて、ローマ・カトリックの壮麗かつ壮麗な建築物(見てきたように言ってるだけ)からもほど遠い。

 

家臣団とともに寝起きするための場所だから、広い敷地を必要とした殺風景な建築物が、壮麗かつ荘厳になっていくのはまだ先のお話。次代のリチャード獅子心王が十字軍に参加して、聖権のきらびやかな文化に触れて以降のことで、領土が先で文化はあと。

 

ヘンリー2世の時代は、王も王子も王妃さえ王権に野心的で、王権=領土で領土の獲得にも野心的。獲得するものがなければ、野心は生まれてこない。

 

というメッセージを、等身大の(ように見える)登場人物が活躍する、娯楽の新しい王様としてテレビドラマが登場した頃に合わせ、古くて取っつきにくいテーマに大御所を配して映画で発信するという、その時代背景こそがやっぱりいちばん興味の尽きないところ。

 

舞台が映画になって、映画がテレビになって、今ではインターネットが登場して動画になっている。演じるという業界で、伝統を背負ってないのは舞台出身じゃない方。

 

ハワード・ヒューズが映画界に歓迎されなかったのは、きっと舞台という伝統を背負ってなかったから。シェイクスピアの戯曲風に描きながら、シェイクスピアが描いてなさそうな人物の妃をハワード・ヒューズと縁の深いキャサリン・ヘップバーンが演じてオスカーを獲る。

 

その構図こそが、演じるという業界の縮図そのもののように思えてお腹いっぱい。

 

最初期から複雑さに対して耐性がないと、複雑な状況は乗り越えられないようになって、ビギナーはついてこれなくなって新陳代謝が滞っていく。