クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

ホワイトアウト

5メートル先は何とか。10メートル先になると、もう視界不良。

 

久しぶりのホワイトアウトに冬の雷は大自然の洗礼っぽいけれど、「雪が降る」ことが前提となっているのに、降らなかった時の方がより自然の驚異っぽい。

 

歴史を題材とした読み物やエンタメが好まれるのは、給与所得者や組織で働く人が多い時だと勝手に思ってる。給与所得者が減って、組織に雇用される人が減ると、組織で生き残るための処世術を考える必要もないから、処世術の宝庫である歴史ものに学ぶことも少なくなる。

 

中央集権国家の成立や、成立過程で起こる出来事は、現代風に考えたらM&Aで属す組織が肥大化していくさまと、よく似てると思った。

 

自分が属す組織のルールや組織体系が、新たな経営陣のもとで新しくなっていく。場合によってはそれまでの社風やカルチャーまで変わっていくのは、中央集権国家の成立過程に置き換えて考えたら、よくあること。ありふれた身近なテーマで親近感も抱きやすいから、素材にもなりやすくて豊富。

 

大きな破壊を伴う変化か。それとも、既存のルールやカルチャーを生かした変化なのか。中央集権化への兆候は、歴史に詳しい人ならこれは強権タイプ、これなら穏健タイプと類推してカテゴライズするのも容易になって、予測が可能になると備えもより容易。

 

将来への備えとして歴史を利活用する方が、利活用しないよりもきっと効率がいい。

 

それまでとはまったく異なるルールやカルチャーで、ぎっちぎちに締め上げてひとつに纏め上げようとしても、浸透するまでの時間やコスト面で折合いがつかないことが明らかな時、現実的な人は現実解を選ぶ。

 

家族以外の人からひどい目に遭わされた。ひどい目に遭わされ続けた人が初めて、家族以外の人のためにも動いて家族を増やし、ここまでと線を引いて文字通り一線を退いて、家族の元へ帰っていく。

 

国の形がもっと不定形で流動的だった、昔々にはむしろ珍しくもなかった身の処し方なのかも。

 

状況や環境が、不定形で流動的だった場合。環境に応じて形を変え状況に流されていたら、流されるままにただ流れていく。だから自身はこうだと頑固に固定していると、流されずにすんで自分自身に踏みとどまれる。ということも、あるかもね。

自然現象

あるジャンルについて自分の方が詳しい、あるいはさして詳しくはないけど、知りたいことや増やしたいことがはっきりしていると、詳しい誰かのおススメよりも、好みを優先させがち。

 

だから、詳しい人がこだわりのあるジャンルについて語ると好みが際立って、特定ジャンルについて、特にこだわりなく一般的な理解を深めたいだけの人の好みとはすれ違う

 

一般的な理解はざっくり言えば教科書的で、客観的。

 

語る対象が例えば国や地域だったら、地形や人口、気候や歴史。誰かにとってもっとも理解しやすいジャンルを切り口にすると、斬新で面白い見方ができるけれど、斬新で面白い理解をめざすと一般的な理解からは遠くなる。

 

海に囲まれている。陸地で繋がった、複数の他国に囲まれている。比較対象とする何かよりも大きいか小さいか。海があるのか山はあるのか。雨は降るのか日は差すのか。そうした諸条件がそこに住む人にどう影響してきたのかが、その国や土地の歴史。

 

なぜ交易が盛んだったのか。なぜ紛争が絶えなかったのか。

 

似たような条件下ではだいたい似たような来歴を持つからだと理解する癖がつくと、なぜという疑問を持つことも少なくなって、理解も早く深くなる。

 

知識を増やすことは、なぜという疑問を減らすため。

 

客観的な知識を与えられず、特定の誰かの主観で貫かれた知識しか与えられなかったら、目隠しをされているのとおんなじ。

 

特殊な条件が揃った時にだけ、世の中の目立つ場所に現れる人やモノ。その種の出来事はいってみれば自然現象の一種で、保水力をなくした山では山崩れが起きやすいや、乾燥してる場所で強風が吹くと、火事はひどくなりがちと同じようなもの。

 

突発的な出来事のように見えるけれど、実は突然でも何でもなく、見えない場所で進行していたものが、目に見える場所に現れただけ。

 

ある人がなぜ目立つ場所にいて、なぜ今はもういないのか。

 

なぜという理由から遠い人だけが、いつも間違える。

三重苦

納期に在庫に予算。年末にお正月に食べるもの(主にお節)を用意するのは、いってみれば三重苦を背負っての作業だから、乗り切ると達成感もひとしおで気分がいい。

 

納期に在庫に予算の三重苦のうち、最初にどのリミッターを外すかで、作業する人の置かれた状況もよくわかる。

 

最初に予算を外すのなら資金には余裕があり、在庫を無視するなら収納スペースには余裕があって、納期を無視するならせかす相手はおらず、のんびりするのも忙しくするのもその人しだい。

 

敢えて条件の悪い時期を選んで、何らかの作業に従事する。普段なら得られない達成感や終わった時の充実感の虜になると、この種の変わった人が生まれるのかも。

 

自分本位で自分だけの時間を過ごしていると、漫然と日々は流れて行くだけ。だから季節ごとのイベントは、本来ならいい気晴らしでアクセント。

 

1月ならお正月。2月なら節分、人によってはバレンタイン。3月には雛祭りで、やっぱり人によってはホワイトデー。4月はお花見で、5月は端午の節句。6月なら、7月ならと、やってもやらなくてもいいイベントに手を出すのは、もともとは日々の暮らしの彩りとかアクセントとかそんなもの。

 

日々を彩ることが目的で、イベントを消化することが目的じゃない。

 

イベントに追われたりイベントを消化することが目的になると、商業的過ぎると敬遠されるようになって、楽しみでやっていたことも楽しみではなくなる。

 

彩りやアクセントだったら、三重苦を背負ってもやってもいいけれど、イベント消化が主目的になると、どうやってもモチベーションは上がらなくなる。

 

もともとは、やってもやらなくてもいいこと。だけど、彩りやアクセントだからやっていたようなことは、楽しみでなくなる前にやめると、ネガティブな感情を過剰に溜め込むこともない。

 

イベント的なものは商業的な扱われ方もするけれど、商業に傾き過ぎてイベント開催が主目的になるとネガティブな感情を呼び込んで、ネガティブな感情を溜め込み過ぎると、商業が商業にならない。

 

ネガティブな感情を呼び込まず、溜め込まない。何かのイベントを商売と共存させながら、商業として長く続けるコツはそこなのかも。

 

短く太く、短期集中逃げ切り型の商業的成功だけを目的としたものをできる限り遠ざける。それだけで、あってもなくてもいいようなものの寿命もちょっとだけ延びる。

楽したい、から始まる

お正月のお節用にと作った、あるいは買ってきたものは17品+α(お菓子類は除く)。+αは、冷蔵庫の常備品で作った口直しの類。

 

1月4日のお昼時点で残っているのは黒豆・金柑のコンポート・栗きんとんその他の9品で、残存率は50%以上。

 

ただし、黒豆・金柑のコンポート・栗きんとんは、元々無くなったら追加する気満々で多めに用意した必須アイテムなので、残存は順当。ローストビーフはもうサラダにするくらいしか(つまりハムっぽい)残っておらず、3日に投入したチャーシューは7日の七草までのつなぎだから、これもやっぱり残存は順当。あとはもう、ひと口ふた口しか残ってないものばかり。

 

お節の自分なりの定義は、七草までの夕食は本気出さないあるいはテキトーに済ませるための代用品。

 

今日から七草までは、残存したアイテムを副菜に使いながら、冷凍庫その他の作り置きや買い置きアイテムを逐次投入しながらテキトーに済ます予定。

 

パンパンになるまで詰め込んだ、冷蔵庫や冷凍庫に次々と空きスペースが出来ていくのは、はっきりいって気持ちがいい。清々しい。またいっぱいにあるいは満杯にしようと、勤労意欲を刺激する。

 

肉でも魚でも。タンパク質かつご馳走系は、塊肉をどうにかしたローストビーフのようなものを筆頭に、一週間から10日程度ならいくらでも冷凍保存ができる。食材の調達できれば予算内に収めたいという、高いハードルを超えさえすれば事前準備は完了する。

 

だからお節はタンパク質に偏りがちで、ゆず釜仕立ての紅白なますが何よりも美味しく感じるという、意味不明なことになりがち。

 

野菜かつご馳走系で、冷凍保存可能かつ事前準備が可能なもので、3日以上は保つものって一体何さ???と、新年から課題が見つかった。

 

お正月っぽさ、百歩譲って冬らしさに溢れた、野菜を使ったご馳走系で、漬物やマリネほど日常食ではないものといえば、心当たりはあるんだけど。3日以上保つとは限らず、食感を保ちつつ冷凍保存できるかどうかがネック。

 

肉や魚と組み合わせると野菜はワキ役になるから、タンパク質と合わせても主役になる野菜料理は、本当に思いつくのが難しい。特に、家庭料理だと。

 

冷凍か冷蔵保存可能で事前準備ができて、なおかつ食感も食味も損なわない。

 

野菜を使ったそんなご馳走系のレパートリーができて増えると、七草どころか小正月くらいまで本気出さない、あるいはテキトーに済ませる夕食になって、すごーく楽になる。

 

何が楽なのか。知るためあるいは見つけるためには、まずは楽じゃないことから始める方が、ショートカットにより近くなるのかも。かもかも。

逆風2021

塵も積もればアイテムが用意されているのなら、塵も積もればのご利益や効用を知っている。

 

塵も積もればが、拡大することはあっても当分減ることはないと分かっていれば、全力で前のめり。

 

5W1Hのうち、Whyさえ分かっていれば、そこにはもう謎なんて何もない。

 

あれはね、辻褄が合わない、あるいは勘定が合わない時には重宝するから無くならず、そこかしこで辻褄が合わない時には大増殖するんだよ。という先入観で見ていると、辻褄あるいは帳尻が合ったらしい時には、いつの間にか消えているのにも納得する。

 

消えた、あるいは消したはずなのにまだ残っていたら、いまだ辻褄も勘定も帳尻も合ってない、何よりのあかし。

 

辻褄があったら消えるあるいは消されると分かっていたら、全力で合わない方に舵を切るのが生存戦略で、そもそも生存本能が強い個体に任せると、いたちごっこは続くよどこまでも。

 

場所によってはハレの日っぽい雰囲気が極小か減ってしまって、ハレの日っぽい場所からめでたさが薄れていると、何かがサカサマになったように錯覚しがちなイリュ―ジョンで、サカサマとイカサマは語感がよく似てる。

 

逆風のなかから生まれたものは、いつだって向かい風に晒されがちで、向かい風に晒されてさえアレだもの。。

 

という立派さだけが際立っていると、逆風が強くなるだけ。

 

逆風が強くなるたびにより逆境に強いものが強くなるだけで、要するに強者が前進するためのエネルギーとして逆風を欲してる。

 

逆境というハンディが大きくないと、やる気さえ出ないくらいの強者に吹いた飛び切りの逆風は、さて次にはどれほど立派で見たこともないものを運んでくるのか。という思考実験は余裕の産物で、余裕がないと思考もできないから、考えなしのものができ上がる。

 

塵も積もればで、無いところから何とかひねり出す習慣がつくと、何とかなるもんさ。

海老とサワークリーム

遠い微かな記憶によると、胡麻を煎る専用の道具、胡麻煎り器というものがあって、ミルクパン程度の大きさのフライパン状のものに、網がついていた。

 

煎った胡麻を料理に使う時は、そのつど煎っていた。家庭内のことだから、煎った胡麻を使った料理といったって、せいぜい胡麻和えとかそんなもの。煎りたての胡麻は香ばしくて、香ばしかった胡麻の匂いの記憶は微かになっても、既製品で済ますには抵抗があった。

 

煎るという行為が家庭内に残るのは、一体いつまでと思いながら今年もごまめを作る。できたてが美味しいものほど、既製品で代用すると美味しさが伝わらなくなって、扱いも小さくなりがち。

 

胡麻を煎るための、専用の道具さえあった。当時の胡麻の生産量や消費量、さらにいえば輸入量や輸出量をサラダ油と比較するだけで、なんらかの盛衰が浮かび上がってきそうで、道具ひとつ調味料ひとつからでも仮説を立てられる想像力があると、暇つぶしの強い味方。

 

掛け算で消費を増やしたかったら観光地に観光客で、簡単に一般家庭での消費量の数倍になる。個々の家庭では消費量が落ちがちなものは家庭の外に出して、トータルの消費量が落ちないようにすると、供給も減らず減らされずにすむ。

 

その種の駆け引きの結果が、“家庭よりも大きな冷蔵庫”の中身なんだと思う年の瀬。

 

2020年を今年食べたもので振り返ってみると、個人的には海老とサワークリーム。パスタの出番が多かったのはきっと巣ごもりの結果で、パスタに限らず炊き込みご飯系で一品で済むようなものが多くなったのも、きっと巣ごもりのせい。

 

海老を大量に使ったエスニックなカレーのレシピと、サワークリームを使った煮込み料理は、今年初めて試してみたもの。作ってみたいと思うレシピはエスニックや洋風に偏りがちで、和食に回帰しないのは新しいもの好きと言えるのかどうか。

 

エスニックな海老カレーは、もともと無糖練乳を使うようになっていたけれど、無糖の練乳そのものがすでにレアものだった。恐らく、もう家庭料理で使うような調味料ではなくなったってことで、代わりにココナッツミルクでも試したみたけれど、どちらにしても一度では使い切れなかった。

 

一度では使い切れないから、残ったココナッツミルクの利用法を探してやっぱりエスニック料理のラクサにたどり着き、ラクサにより合う麺を探すと沖縄のソーキそばならどうだと思い付いた。思い付いただけで実行には移さないままなのは、食材の調達というハードルがあるからで、多国籍な調味料や食材がすぐ手に入るのは、やっぱり多国籍な場所。

 

ボルシチに馴染んでいたのは、缶詰ながらビーツは簡単に手に入る環境で過ごしてきたからで、ボルシチに代表されるロシア料理でさえフツーだったのは、外食の選択肢にその種のレストランもあったから。

 

人口規模が、それなりかそれなり以上。大学に代表される高等教育機関の数も、それなりかそれなり以上だと多国籍になっていくのが自然で、自然な流れとして多国籍な住民の好みを反映して、外食の選択肢も多国籍だった。

 

外食の選択肢も多国籍から国民食にシフトして、国民食にシフトしながらもよーくみると各々のテイストは多国籍だとローカライズが進行中ともとれる。ローカライズが絶賛進行中だから、よりホニャララっぽい振る舞いが望まれて、そんな時はルーツに近い振る舞いこそがタブー視されるようになるのかも。

 

例年に較べれば、あちこちに出掛けるわけにはいかなかったから、食べたものがより濃厚にその年の過ごし方を表している。食べたものから個人の生活ではなく、その国の暮らしそのものが例年よりより濃厚に垣間見える。そういう年が、終わっていく。

クリスマスの振り返り

家庭で作るご馳走の限界を決めるのは、冷蔵庫。

 

冷蔵庫が大きいと肉に魚、野菜にくだものに調味料と何でも入るから、テーブルに並ぶ御馳走も豪華で品数の多いものになる。容量が小さいと何でもは入らなくなり、使い回しを考えるようになってハレとケ、日常と非日常も地続きになる。

 

25日の金曜日か24日のクリスマスイブか。

 

ちょっとだけ悩んで、翌日を気にしなくてもいい25日により重点を置いたけど、その実24日と25日とちょーっとづつ食材を使い回していることは、自分だけが知っている。

 

24日はマッシュルームのクリームパスタ。多めに作ったクリームソースは、翌日のチキンジュレタプナードソースの周囲に回しかけて、よりハレの日っぽく演出する。プリンの型で抜いて、何かのハーブでも飾ればよりハレの日っぽく外食っぽくなったかも。

 

白インゲン豆とチキンの煮込みで使った茹でた白インゲン豆も、多めに作って冷凍庫へイン。そのうち何かのスープや煮込みに使う。

 

デザートはフルーツで。洋梨とイチゴサンタで盛り上げる、非日常気分。イチゴサンタの表情を作るのは案外難しくて、かわいくデコレーションすればするほどありふれた素材なのに、ハレっぽさは高まりそう。

 

洋梨もイチゴも完熟なのは、カットした時にわかること。製造と販売の場が近くなるほど、モノは新鮮になってモッタイナイが減る。

 

25日は骨付きのラムステーキがメインディッシュ。前日からマリネ―ドしていたにんじんと、カブも一緒に焼いて付け合わせに。生のラデッシュ、茹でた芽キャベツ、焼いたにんじんにカブと、食感の違う野菜を組み合わせれば、単調さもちょっとだけマシ。

 

北海道は、ジンギスカンの本場だもの。だから、イベントシーズンでもいいラム肉が手に入るのは交易のなせるわざで、大口取引って大事よね~と感じ入る。

 

ちょっとだけ白ワインを足して、オーブンで温めればそのままチーズフォンデュになるフランス産のチーズは、付加価値の塊。フォンデュによく合うライ麦入りパンに芽キャベツ、プティトマト、そら豆を添えて。

 

ブロッコリーの緑の代わりに普段使いしない野菜を使うと、これもやっぱり非日常。

 

デザートは数日前に作り置きしておいたクリスマスプティングに、季節の違う南半球からやってきたというサクランボと、イチゴにクロテッドクリームを添えて。

 

季節の違う場所から持ってくるだけでも付加価値で、残ったサクランボはコンポートにした。

 

ただ混ぜ合わせればいいだけで、オーブンも使わずに作るクリスマスプティングは素朴な味で、おせちに例えるなら栗きんとんか黒豆。

 

いつから非日常の食べ物として定着したのか。ルーツはよく知らないけれど、クリスマスプティングも黒豆もきんとんも、日頃から手に入る材料がハレの日の食べ物に変わったもの。

 

日頃からは手に入らない。その種のものでハレの日の食べ物を作ろうとしてもやっぱり無理で、まず競り負ける。

 

年に一度か二度しか出番がなくても。いつものアレがいつも手に入ると安定を感じて、いつものアレが手に入りづらいと不安定を感じる。不安定が続いたあとは、安定してるかどうかに敏感になって、チェックも厳しくなる。

 

振り返りは、来年のためのもの。選択肢がたくさんあるなかから、さて何を作ろうかと考えているあいだは、家庭よりも大きな冷蔵庫の中身が安定してるってことだから、安心感もマシマシ。