クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

オリジナルにはない

オリジナルにないことは一切付け加えてはならないと、本当に本人が言ったかどうか。今となっては確かめようもなく、代理人がそう言ってる以上オリジナルにないことは、すべてただの蛇足でしかないんだけど。

 

ひとりで完結する趣味は、同好の士を見つけるのが難しい。そもそもひとりで完結する趣味で、話してみたいというより尋ねてみたいことがあるのは、すでに故人となって久しいたった一人。聞いてみたいこともたったひとつ。

 

すでに故人となって久しい人がずいぶん昔に書いた、一読すると訳の分からないものについて、私はこう考えたんですけどどう思いますか?とだけ聞いてみたい。

 

おかしなことを考えるねと、笑い飛ばしてくれたらそれがいちばんなんだけど。

 

海で生まれ育った魚は、バナナなんか食べない。

 

人類が初めて体験するメディアの最前線で、大衆とともに育つという特異な育ち方をした知性と感性に優れた人が、後年体験する知性と感性を脅かされる出来事は、深淵を見つめるものは深淵から見つめ返される。そのあり様を活写したもので、深淵から見つめ返されることに飽きるか疲れて目を逸らすとどうなるかを描いていたんじゃないですかと、故人となって久しいその人に聞いてみたい。

 

深淵にいる何かは、見つめてくる相手を遠慮なく見つめ返してくる。

 

そもそも深淵にいるのは目が合わないようにしているからで、同じ目線までやってきて無遠慮に眺めまわされると遠慮なく見つめ返してくる。対峙しているならバランスが取れているから、知性も感性も脅かされない。だけど、飽きるか疲れて目を逸らした時からバランスは崩れ、知性と感性が脅かされるようになる。

 

体力的にも精神的にも消耗したあとは、疲れやすく飽きやすくなる。だから、精神的にも肉体的にも激しい消耗を強いられる過酷な体験のあとでは、バランスも崩れやすくなってより脆い。

 

知性と感性に優れた人の知性も感性も、尊重していたらわざわざ過酷な体験には晒さない。

 

過酷な体験を経て精神的にも肉体的にも脆くなったところで、知性と感性を脅かすような出来事を立て続けに味わうのなら、知性と感性の入れ物そのものが脅かされている。

 

人類が初めて体験するという、大袈裟な形容詞が似合うような時には起こるかもしれないこと。だから知性と感性の入れ物を尊重するなら、知性と感性の入れ物はそのままに、知性も感性も退行した気力と体力には溢れた何かと入れ替わったりしないよう、よく見ておきなさい。

 

という警声を、一読すると訳の分からないあなたが書いたもののなかに感じ取ったんですけど?と聞いてみたいけど、答えなんかあるはずがない。解がないはずの問いにだって、勝手に答えを見つけ出す気力と体力に溢れた何かに対しては深淵も手の出しようがなく、知性も感性も脅かしようがないから。

 

禅が好き、あるいは興味があると聞くと、あら日本かぶれと思いがちだった。

 

だけど解のない答えについて考え続け、考え続けた課程そのものをすっかり明らかにしつつ解らしきものに至る公案っぽいものは、日本的というよりもむしろ非日本的。感性に逃げないから。

 

解のない答えを考え続けることは本来苦行で、苦行を続けるのなら感性に反してる。感性に反しながらも知的に考え続け、感性も納得するような解らしきものに到達したその時に、知性と感性は共存してる。

 

感性に支配された何かが知性を獲得する瞬間って、そんなものなのかも。

 

死者について考えることは、自分のなかでは目一杯クリスマス。

同工異曲

クリスマスのご馳走は、何にしようかと考えるシーズン。鶏の丸焼きに豚肉の塩釜といろいろ作ってきたけれど、家庭でできる御馳走にはやっぱり限りがあるから悩ましい。

 

ハンバーグ、ミートローフにパテ・ド・カンパーニュと名前は変わって作り方も少しづつ複雑になっていくけれど。もとを正して原材料から眺めてみても作り方からみても、だいたい一緒で同工異曲。

 

作り手からすれば、同工異曲でだいたい一緒。原材料を揃える手間も作り方にも、そう大差なし。

 

ただ、パテ・ド・カンパーニュを好む向きにはハンバーグだと子どもっぽくて物足りない。ということは大いにあり、逆にハンバーグだと食欲旺盛になる向きにとっては、パテ・ド・カンパーニュだと食欲は刺激しない。

 

じゃあそこはミートローフの出番で双方満足するかというと、そうはならないあたり、やっぱり味覚は保守で、好みは好みとして厳然と存在するから、特に好みが剥き出しになる家庭内では、保守的で頑固な方に譲りがち。

 

作り手からすれば、同じテーブルにつく好みの違う二者がいても、材料も製法も大して変わらないのなら、各々の好みに応じたものを各々に出せばいいだけ作ればいいだけなんだけど。

 

家庭内に溜まる不満の総量を減らす方向に、惜しみなく手間をかけるのなら平和主義で、家庭内に溜まる不満の総量に無頓着だったら、家庭内の平和には大して興味がなさげ。

 

家庭内に限ったことではないんだけど。不満の総量が少なくなるように動くのが知性の平和利用で、不満の総量が大きくなる方に舵を切るのが、知性の反平和利用なんだと勝手に思ってる。

 

満ち足りている円満な環境に波風を立てたかったら、不満の総量を大きくすると円満な何かも円満ではなくなる。

 

争いは、同じレベルのものでしか起こらないのなら、同レベルが大勢集っている時ほど争いも大きくなりがち。ついでに、物凄い知者や賢者はだいたい数が少ないから、集ったとしても集団としてはたかが知れてる小集団にしかなれない。

 

不満の総量を少なくする、知性の平和利用には小集団で十分で、少数が少数でなくなった時には本来起こらないはずの争いも大きくなって、知性派なのに武闘派という異形が生まれやすくなるのかも。

 

知性派なのに武闘派という、知性の反平和利用が目立って不満の総量が大きくなり過ぎた時は、すかさずもとの小集団に戻して武闘する必要のない環境におく。そうすると、知性は知性のままで荒ぶらず、平和なまま平和利用も進むのかも。かもかも。

 

今年のご馳走は何にしようかと悩むほどに選択肢があるのは、どう考えても平和で満ち足りている。

栽培限界

今日のお昼頃に見た天気予報では、太平洋側はみごとに晴れマークが並び、日本海側はしっかり雪だった。

 

北海道はでっかいどうだから、ひとまとめに北海道といってもいろいろで、特に日本海側と太平洋側では全然違う。顕著なのは積雪量で、例年よりイッジョー(←単に異常では言い足りない)に積雪量の少ない今年の札幌は、日本海側気候ではなく太平洋型気候が勝っているのかも。

 

12月に入っても積雪量は極小で、路肩にチョロッと積もった雪をわざわざ踏みしめて歩くのは滑って転ばないため。

 

暖冬と言われた去年よりもさらに暖かい今年は、どう考えても異常気象だとしか思えないんだけど。ホワイトイルミネーションが本来の会期中のクリスマスまでに、何回地面が白くなるのか数えてみたいくらい。

 

11月なのにライラックが咲いて、雪をかぶったライラックという、ヒッジョーに(←単に非常にでは言い足りない)珍しいものを見たのは去年のこと。季節外れの狂い咲きを、天変地異の前触れととらえるとスピリチュアルに寄って、品種改良によって栽培限界に挑戦中ととらえるとテクノロジーに寄っていく。

 

冠雪した花はだいたい何でもフォトジェニックで、フォトジェニックな景色を人為的に再現しようとした時に頼るのもテクノロジー

 

例年よりイッジョーに暖かくて雪が少ないと言ってもそこは雪国で、日が沈むと今年一番の寒さプラスアルファだから、気温は氷点下。

 

米作の北限は札幌よりももっと北だそうで、そもそも暖かい土地で育つものなのに、思えば遠くでも育つもんだで、技術の進歩に感心するしかない。葡萄が育たないとワインはできないから、葡萄が育たない寒冷地ではワインとは別の飲み物がワイン代わりになるんだとか。

 

お米でさえ札幌よりももっと北で育つのなら、葡萄だってもっと北で育つ。

 

栽培の北限がどんどんズレていくと、北海道ではもともと育たなかったはずの果実や野菜その他も育つようになって、食料王国はますます安泰になりそう。

 

プランテーション的にひとつの作物を大規模に栽培方式から、少量多品種で時には栽培地も変えてのような栽培方式になると、ほっかいどうはでっかいどうな景色も変わって、ほっかいどうはでっかいどうな景色は、ますます観光に寄っていくのかも。かもかも。

 

実用性や有用性を何よりも尊ぶ人は、徹頭徹尾実用性や有用性を出発点にものごとを考えるんだろうと、勝手に思ってる。

高効率のススメ

生活してる場所に生活の匂いがあるのは当然で、生活してる場所、それも長時間過ごす場所にもかかわらず、いつもピカピカだったらその秘訣は念入りに掃除をしているからに決まってる。

 

生活してる場所がいつも小奇麗な人は、だからだいたいスリム。

 

というこれは個人の感想で、運動する場所が極端に狭くて限られていても、運動量が多いから運動不足にはならずにスリムな体型を保てているんだと思ってる。

 

大豪邸なら、いざ知らず。毎日使う生活の場所を、毎日ピカピカに磨き上げていたら、お掃除がエクササイズ代わりになって、お掃除サービスなんていらない。使わない。

 

必要となるのは、毎日ピカピカに磨き上げるよう心掛けていても、どうしてもとれなくなる、特殊な道具や溶剤を必要とする汚れを取りたい時くらいになって、特殊な道具も溶剤も使えないお掃除サービスは使う理由がないから、その種の”他人に頼むサービス”そのものが、高度になっていく。

 

家庭内のお仕事を専門にこなす、専業主婦や主夫がいると、他人に頼むサービス産業は育たない。自分でもできる範囲のこと以上を求めるから、チェックは厳しいわりに払いは渋くて、産業としてペイするにも時間がかかり、時間だけがかかり過ぎると産業にもなれない。

 

アンペイドワークは、たとえばエクササイズがわりのように、働き手にもなんらかのメリットがあると金額の多寡とは関係なく、アンペイドワークであっても良質な働き手になりえるんだけど。

 

良質なアンペイドワーカーが、趣味的かつ意欲的にこなすお仕事の質は高くて、たとえばお掃除ならいつでもピカピカにもなるけれど、趣味でもなく意欲的でもなくイヤイヤこなすアンペイドワークには、どうしたって質は期待できない。

 

質は期待できないと最初からわかっているから、期待しない。

 

アンペイドワークに対して、そう了解している側は最初から多くを望まないし、アンペイドワークに対して多くを望む方が、どうかしていると考える。

 

そこはすでに、趣味の場でもなんでもない。明確に金銭が動く場で、コストとプロフィットも呆れ返るほどはっきりしてるのに、プロフィットに目をつぶってコストだけを担わされるのなら、わりに合わない感情が生まれるに決まってる。

 

割に合わない感情が、生まれるに決まっているのに放置されるのなら、それはわざとで作為的。

 

生まれるに決まってる、割に合わない感情をエネルギーとして利用して、どうにかこうにか前に進む。割に合わない感情が生まれてくるのをまず待たなきゃなので、高効率が歓迎される場ではその種のエネルギーは歓迎されず、高効率を歓迎しない側からの招待状なんだと思えばまず間違いない。

 

効率を度外視すると、大抵の場合非効率競争が生まれるから、マイナス方向に大きく足を引っ張りたい時は、非効率へと大きく舵を切るようになっているのが、非効率を尊ぶ側なんだと、これも勝手に思ってる。

味覚は保守的

チャーシューの代わりに天ぷらがトッピングされたラーメンを食べたことがある。麺も具材も全体的にあっさりした味付けで、こってりだと持て余すから個人的にはちょうどよくて美味しかった。

 

ただし、ちょうどいいと思ったのは個人の好みで、“チャーシューのないラーメンなんて”という声の方が一般的で多数。

 

だからラーメンという食べ物にチャーシューはつきもので一般的で、スープが塩でも味噌でも醤油でも、なんならトマトやカレーであってもチャーシューさえトッピングされていたら、その食べ物はラーメンと認識されるんだろう。

 

チャーシューの代わりに天ぷらがダメなら、多分唐揚げやカツにハンバーグでもダメで、タンパク質ならいいでしょ?とはならないあたり、食べ物は保守的。一般的にはこうでしょ?という、固定されたイメージをすでに獲得している場合は特に。

 

麺の上に天ぷらや唐揚げやカツ、あるいはハンバーグを載せて食べたかったら別の食べ物でやって頂戴ということで、本家や本場ではきっとNGを食らうに違いない、パスタの上に唐揚げやカツにハンバーグを載せた食べ物は、パスタの食べ方として定着してる。

 

本家や本場ではNGを食らうに違いないから、試すなら別の場所。

 

味覚が保守的だと知ってる側が新しい何かを試す場所は、いつも本家や本場とは別の場所で、別の場所で試して成功した新奇あるいは珍奇なトッピングは、下敷きにしているご飯や麺の需要が細っても、トッピングはトッピングとして生き残っていく。

 

蕎麦もうどんも和のもの。和の世界とは別の新天地が見つからないと、蕎麦食やうどん食が細るとともに、蕎麦やうどんにつきもののトッピングは、トッピングとしての出番も少なくなっていく。

 

ご飯食、お米を主食とする経済圏は膨張しても、そのなかで“和のトッピング”がどれ程の存在感を保てるかといえば、心許ない。カレーやパスタにピザに唐揚げはトッピングとしてすでに進出しているけれど、天ぷらトッピングが見当たらないのはやっぱり“伝統”で、味覚は保守なんだ。

 

揚げ物でタンパク質でしょ?という点では同じなんだけど。

 

大雑把に分類したら同じものでも同じように扱わないのは保守で、大雑把に分類したら同じものを同じように扱うのは、保守とは反対側にいる革新系。なんだと思うといろいろ納得する。

 

テレビ局のコンテンツとして食べ物系は鉄板で、鉄板なのは保守、与えられた時間枠を埋めるのに都合がよくて、新奇性よりも持続性、続けられるかどうかの方が重要だからなんだと、これも勝手に思ってる。

 

守る人がいるから攻められる。

 

腹が減っては戦はできぬはやっぱり至言で、攻めようと思った時にはお腹いっぱい満ち足りている方が強いに決まってる。気合ではお腹は膨れないから。

 

オールドメディアでイメージするのは、テレビに雑誌や書籍の紙媒体。新しいメディアでイメージするのはテレビでも雑誌や書籍でもない方で、新しいメディアであっても食べ物系コンテンツが充実していたら、守る体制が整っているから攻める方にも積極的なんだと解釈することもできる。

 

メディアのカタチがその国のカタチ。というフレーズを、いつかどこかで目にしたことがあるけれど。食べ物系の情報が溢れている国のメディアは、食べ物に関係するものを大事にしているか、食べ物で成り立っていると思えなくもない。

 

腹が減っても戦はできなかったから敗けたという過去の教訓を反面教師にしていたら、食べることを大事にする。腹が減っては戦はできぬという経験も実感もなければ、食べることはぞんざいに扱う。

 

食べることは二の次三の次で革新に突き進んだ国のメディアが、国としての再末期にいったい何を情報として流していたのか。ふんだんに食べ物情報を流していたとは、どう考えても思えない。

 

現実には手に入らない食べ物なのに、メディアにはふんだんに食べ物があふれているなら、そのメディアはもはや現実とは地続きでもなく、すでに別の国のものなのかも。

 

末期を迎えた国のメディアが、いったい何を情報として流していたのか。末期を迎えた国が増えるほどにデータは積み上がって、予兆が簡単になれば、予兆を逆手に取って虚報を流すことも簡単になる。

 

消えたものに注目する手法は、わりと応用範囲が広いと思ってる。

大人向けお子さまランチ

去年だったか。「大人のためのお子様ランチセット」を自分のために作ったことがある。

 

大人のためのお子様ランチセットは、何から出来上がっているかのリサーチからまず始め、炭水化物と炭水化物に揚げ物と甘いものから出来上がってると自分勝手に定義した。だから、チキンライスにナポリタンにエビフライにサラダにプリンと、確かそんな感じで作った。

 

作ってみてわかったのは、絶妙にアルコールが合わないってことで、どう考えてもお茶や何だったらジュースの方がぴったりくる。

 

だから、“アルコールが合わない”度が上がるとノンアルコールに合うに近付いていき、ノンアルコールに近付くから見た目も雰囲気も子供っぽく、お子様向けになっていく。

 

レシピ本を眺めていても、アルコールとの相性がよくなると、だいたい見た目も雰囲気も大人っぽくプロっぽくなっていく。

 

なかには、アルコールが入ると味なんてどうでもよくなるというタイプもいるっちゃいるんだけどさ。

 

ちゃんとしたプロが、相応のトレーニング時には厳しい修行を経て習得したはずのもの。なのに、アルコールとの相性が悪いばかりか、見た目も雰囲気も子供っぽいままだと、相応の努力は大して払わず、厳しい修行から脱落してアルコールにでも逃げていた時期が、修行期間に含まれてでもいたのかな?と思う。

 

洋風の大人向けお子様ランチは、イメージとしてはケチャップ色。

 

では和風の大人向けお子様ランチセットってどうなるのさ???と考えると、和風パスタに和風ピラフ、揚げ物は天ぷらあたり。デザートは羊羹よりももっと子供っぽくアルコールに合わせるのがより難しくなる、お団子やどら焼きのようなものに落ち着いて、イメージとしてはしょうゆ色。

 

〆の和風デザートにはアルコールは似合わないけれど、味付けのベースがしょうゆあるいは味噌味だと、基本的にはアルコールとの相性がいい。そういや日本の基本調味料はだいたいアルコールとの相性がよく、あんまり子供っぽくアルコールが似合わないような、和風の大人向けお子様ランチを考えるのがすでに難しい。

 

そう考えると、アルコールが絶妙に似合わないケチャップ味は、アルコールを遠ざけながらも日常食には合うという点で、画期的だったのかも。かもかも。

頑丈で丈夫な下駄

補助金が打ち切られたら終わりと、関税障壁が高くなったらおしまいは相似形。

 

どちらにしても、マーケットに参入するために履かせてもらっていた下駄、外されたらマーケットには入れないという意味で一緒だから。

 

食べ物でいえば、素材が集まるのが市場でマーケットでスーパーのような場だったら、生産者はそこに素材を持ち込む人で、素材を使って(場合によっては提供されて)調理するのが料理人で、調理する場も特に家庭とは限定されていない。というケースを想定してみる。

 

素材を持ち込む生産者が、プロの料理人に調理してもらうことしか期待せずに、誰にでも開かれたマーケットにプロ仕様の素材を持ち込んでも別にいいんだけど。あるいは、それまで顧客とは思われていなかった顧客を創造するために、誰にでも開かれたマーケットにそれまで扱われていなかった素材を持ち込んでも別にいいんだけど。

 

その手の素材は、家庭で調理する素材を求めて誰にでも開かれたマーケットにやってくる、プロではない人の手には余るから、イメージや雰囲気とのセット売りでもないと、持て余す。

 

一見するとたくさんの素材が集まっている、ものが豊富なマーケットのように見えてもその実態は、プロではない人が調理するには持て余すような素材ばかりが並んでいる。という状態になると、素材を生かすこともできずに調理する人もいなくなる。

 

素材は次々と運ばれてくる。マーケットには次々と素材が並ぶ。

 

でも、調理する人だけはいつまでたっても現れないのなら、並べる場所はマーケットじゃなくてもよくなり、調理する人がいなくなるような素材しか並ばないようなマーケットは、もうマーケットじゃない。

 

行き場を失った素材と、手に入らなくなった素材を必要とする人がまた新たなマーケットを立ち上げる。というサイクルで、きっと世の中は回っているに違いないと勝手に思ってる。

 

壊すというワードは語感が悪い。だけどスクラップアンドビルドのような行為は、そのまま放置を許さずマーケットがマーケットであり続けるためには必要な手段で措置だと思うと、ネガティブさも消える。

 

多種多様な素材が集まってくる場を別の角度から眺めると、エゴの塊となりがちで、何らかのエゴが勝るとマーケットがマーケットでなくなるから、壊し時でメンテナンス時。

 

生産者も素材もマーケットも料理人も。その時々で姿かたち、ナリは変わってもやってることは結局ずっーと一緒。ただ表層に現れる形が異なってるだけで、表層に現れる形はその時々でもっとも好まれやすい形を選んでるだけ。

 

という達観にも似たものが生まれてくるのも定点観測の醍醐味で、定点観測する側が許容しているのなら、結局は許されている。

 

途中参加や新規参入が難しいものに途中から参加すると理不尽が募るから、理不尽が募って許せないから壊すという行動に出ても、壊す必要がないものは壊れず、メンテナンスされるだけ。

 

本来入れないはずのマーケットに出入りするための下駄もジョーブで頑丈で、ジョーブで頑丈だから、その時々で下駄の姿を変えながらわかる人にはわかる形で存続してるのかも。かもかも。