クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

頑丈で丈夫な下駄

補助金が打ち切られたら終わりと、関税障壁が高くなったらおしまいは相似形。

 

どちらにしても、マーケットに参入するために履かせてもらっていた下駄、外されたらマーケットには入れないという意味で一緒だから。

 

食べ物でいえば、素材が集まるのが市場でマーケットでスーパーのような場だったら、生産者はそこに素材を持ち込む人で、素材を使って(場合によっては提供されて)調理するのが料理人で、調理する場も特に家庭とは限定されていない。というケースを想定してみる。

 

素材を持ち込む生産者が、プロの料理人に調理してもらうことしか期待せずに、誰にでも開かれたマーケットにプロ仕様の素材を持ち込んでも別にいいんだけど。あるいは、それまで顧客とは思われていなかった顧客を創造するために、誰にでも開かれたマーケットにそれまで扱われていなかった素材を持ち込んでも別にいいんだけど。

 

その手の素材は、家庭で調理する素材を求めて誰にでも開かれたマーケットにやってくる、プロではない人の手には余るから、イメージや雰囲気とのセット売りでもないと、持て余す。

 

一見するとたくさんの素材が集まっている、ものが豊富なマーケットのように見えてもその実態は、プロではない人が調理するには持て余すような素材ばかりが並んでいる。という状態になると、素材を生かすこともできずに調理する人もいなくなる。

 

素材は次々と運ばれてくる。マーケットには次々と素材が並ぶ。

 

でも、調理する人だけはいつまでたっても現れないのなら、並べる場所はマーケットじゃなくてもよくなり、調理する人がいなくなるような素材しか並ばないようなマーケットは、もうマーケットじゃない。

 

行き場を失った素材と、手に入らなくなった素材を必要とする人がまた新たなマーケットを立ち上げる。というサイクルで、きっと世の中は回っているに違いないと勝手に思ってる。

 

壊すというワードは語感が悪い。だけどスクラップアンドビルドのような行為は、そのまま放置を許さずマーケットがマーケットであり続けるためには必要な手段で措置だと思うと、ネガティブさも消える。

 

多種多様な素材が集まってくる場を別の角度から眺めると、エゴの塊となりがちで、何らかのエゴが勝るとマーケットがマーケットでなくなるから、壊し時でメンテナンス時。

 

生産者も素材もマーケットも料理人も。その時々で姿かたち、ナリは変わってもやってることは結局ずっーと一緒。ただ表層に現れる形が異なってるだけで、表層に現れる形はその時々でもっとも好まれやすい形を選んでるだけ。

 

という達観にも似たものが生まれてくるのも定点観測の醍醐味で、定点観測する側が許容しているのなら、結局は許されている。

 

途中参加や新規参入が難しいものに途中から参加すると理不尽が募るから、理不尽が募って許せないから壊すという行動に出ても、壊す必要がないものは壊れず、メンテナンスされるだけ。

 

本来入れないはずのマーケットに出入りするための下駄もジョーブで頑丈で、ジョーブで頑丈だから、その時々で下駄の姿を変えながらわかる人にはわかる形で存続してるのかも。かもかも。