クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

真似したがり

知ってることの方が多い。その反対側には、知らないことの方が多いがある。その状態が、情報の非対称性。

 

だから、知ってることの方が多い側に立つと、何が隠されてるのかもよくわかる。

 

一見すると同じ地平に立っていても、そもそも持ってる情報量が全然違う。だったらと、同じ地平に立った時に見えた景色を知らないことの方が多い側に伝えることは、情報の非対称性をならす作業で、情報の非対称性という垣根がなくなると、そもそも数の多い方が有利になる。

 

必要に応じて情報の非対称性を駆使し、数の多い方の目を時に欺くのも戦術のひとつ。自在に情報の非対称性を操れる側とは、互角の勝負に持ち込むことさえ難しい。

 

時と場合に応じて、隠すのも露出するのも自由自在な相手とは、そもそも互角の勝負にならない。そもそも互角の勝負にさえならない相手とあくまで物量、数で勝ろうとしても補給が途絶えたらやっぱり苦しい。

 

そもそも互角の勝負にさえならない相手と、勝負しようとするなというメッセージを敢えて、あるいはわざと発するのはだから、どっちかっていうと親切なんだと思う。

 

社会の目立つ場所で、敢えて情報の非対称性を最大限に利用したアトラクションを仕掛け、アトラクションの肝まであからさまにするのは、模倣なんてできるもんじゃないから。

 

数を頼みにしている側が、情報の非対称性を利用しようとしてもひとつになれない。ひとつになれないから数の多さがメリットにならず、むしろ伝言ゲームのように情報の非対称性は深まるばかり。

 

目立つ場所に、情報の非対称性を利用した模倣なんてできるもんじゃないアトラクションをわざわざ用意するのは、だからすぐに真似したがる相手の心理を先読みしてのことかも。

強冷房、つけると周辺の気温はますます上がる。

先月、8月のなかばにはスコーンを作っていた。

 

夏真っ盛りといってもオーブンを使っても構わない程度には涼しかったということで、例年にない暑さであっても、やっぱり本州に比べればたかが知れてる。

 

強冷房が効いた室内なら、いざ知らず。

 

本州のような40℃近い暑さのなかで、オーブンを使って焼き菓子を作る気になるかというと、まずならない。業務ならともかく、趣味でスイーツを作るなら別のもの。ということで、寒天を使ったお菓子も作っていた。

 

巣ごもり需要プラス家計防衛で、パンやケーキを自作する人が増えたせいか入手しづらかったベーキングパウダーも手に入ったから、久しぶりに作る気にもなったという、これは自分のための備忘録。

 

一般的な流通経路で手に入るベーキングパウダーは、そう何種類もなかったという、これも自分のための備忘録。

 

パンデミックというワードはすっかり有名になったけど、エピデミックといえば風土病。広範囲に及ぶものではないけれど、風土に由来した病。

 

地質や環境といった、風土に由来するということは環境由来で、環境由来だから環境を変えると病も癒えるかそもそもかからなくなる。ものなのかもね。

 

もう9月なのに、暑くてうんざり。

 

真夏だから、寒気がするほど強冷房を効かせ、寒気がするから真夏なのにニットを着込む。という対処法で暑さを乗り切るのも、環境由来で一種の風土病かも。その状態では誰も幸せにはなれないのにその状態が続いていたら、病膏肓に入ってると思ってもいいのかも。かもかも。

積み重ねて、薄くなる

歴史が積み重なってゆくにつれて、記述する内容は本来増えていくはずで、増えた内容に合わせてぶ厚くなっていくのが、ツラの皮とボリューム。

 

歴史を積み重ねても、ボリュームもツラの皮も変わらず特にぶ厚くなっていなかったら、ワザと。あるいは努力の賜物。

 

スペースが有限だったら、残すものも限られるから適度に間隔を開ける。

 

適度に間隔を開けたものは、本来あるべきところとはまた別のところに置くというより隠し、あるべきところとの一体性や同一性もわからないようにすると、わかる人にしかわからないようになる。

 

歴史を積み重ねて内容が増えても、ボリュームは変えない。

 

層の厚みは常に一定に保つようにし、規定量に達した時点で別の場所に移し替える。という作業を繰り返していくと、もともとは一つだったものが各所に散らばっていく。

 

移った場所でも同じように歴史を積み重ねていき、層の厚みが一定に達したらまた別の場所に移す。歴史を積み重ねていっても厚みが一定量に達しないようだったら、移し替えた別の何かと糾合して厚みを補う。

 

という作業が必要になるのは、そもそも持ってる歴史の厚さが違うから。

 

歴史、重ねたはずなのにうっすー。

 

という何かを見掛けた時は、隠していることの方がずっーと多く、隠された何かは誤用や悪用を恐れてわざと隠されている。という理解でいいんだと思う。

 

誤用や悪用を前提にすると、世の中に出回る情報の総量はより少なく薄くなっていき、隠された情報の価値も高くなる。のかもね。情報の非対称性は好きじゃないけれど、誤用や悪用が増えると隠さないとしょうがなくなり、隠されるのなら誤用や悪用が多い状況を反映してる。

 

誤用も悪用もできない環境が整わないと、情報の非対称性は解消されず、誤用や悪用もできない環境が整っていくほどに、また世の中に出回る情報の総量も濃く豊かになっていき、最終的には適正価格と適正なボリュームに落ち着いていくのかも。かもかも。

 

うっすーいものばかり量産したいわけでは全然なくても、環境由来でうっすーくならざるを得なかった人のフラストレーションがたまりにたまって爆発すると、劇的に環境も変わるものなのねぇなのが、イマココ。

悪目立ち

それは果たして日本語でしか表現できない内容なのかどうかが、近頃気になること。

 

試しに“精神の漬物石“をWebの翻訳サービスで翻訳し、出てきた英語をまた同じような工程で日本語に翻訳し直すと、途方もなくおかしなことになって、”精神の漬物石“からははるかに遠いものになる。

 

写真で見せれば一発なんだけど。

 

日本語に限らずどんな少数言語であっても、Webの翻訳サービスのようなフィルターにかけても大意が変わらない。InputとOutputがほとんど同じものがグローバル。InputとOutputから大きく内容が逸れたものは、グローバルじゃない。

 

外国製の見たことも食べたこともないお菓子を出身国の子どもに紹介するときに、ことばだけでしか紹介できない制約があったらではどうすりゃいいのさで、写真があれば一発なんだけど。

 

あるいは、そもそもお菓子に詳しい人なら似たようなお菓子を知っている可能性がより高くなり、見たこともないお菓子であってもより説明がうまくなる。

 

ベースとなるインプットにアウトプットへの配慮があれば、本来はグローバルから遠いものでもよりグローバルに近付いてわかりやすくなる。ベースとなるインプットが“精神の漬物石”のようにわかる人にしかわからない、ローカライズ要素たっぷりから出来上がっていると、グローバルから遠くなってただエキゾチック。

 

Input > Outputで、インプットに含まれている情報から余分なものを削ぎ落したアウトプットが、Input≒Output。

 

Input < Outputで、インプットに含まれていない情報が多分に含まれてローカライズされたアウトプットはInput≠Output。

 

わかる人にしかわからない、ローカライズに閉じている甚だしくグローバルへの配慮が足りないローカライズでエキゾチックなものを、そのまんまで均質化されたグローバルなものと並べると、悪目立ちする。

 

均質化されたグローバルななかでローカルを貫くのはそういうことで、そんなことはすっかり承知してる人たちが敢えてその手法を採るのなら、グローバルのなかのローカルは、そういうことなんだというお手本で、生き辛いことを示してる。

 

どうやっても数は増えない。

 

数に訴えても通じないし埋没していくだけの状況や環境で、ローカルを貫くだけだとただ悪目立ちするだけだからとグローバルな理解に寄せていくと、ローカル色が薄れていくのが早くなるだけ。

 

ローカル色が薄れてエキゾチックさも抜けていくと、グローバルな方からローカルに寄せてきて、グローバルとローカルが混ざり合って本来ローカルにはなかった伝統や習俗的な何かが、新しく生まれてくるんだろうと思ってる。

思いついたことをただダラダラと

思い出しただけで、あー泣いちゃう。涙出るというトラウマな出来事を、個人的には「精神の漬物石」と呼んでいる。だって漬物石は、乗っけると水分が出るから。

 

漬物石といったところで、そのビジュアルが想像できない人には、わからないに違いないけど、普通は重しに使うくらいだから、デカい石。

 

「精神の漬物石・重量級」あるいは「精神の漬物石・横綱級」とよぶと、超巨大トラウマ。「精神の漬物石・横綱級。だがしかし、軽石製なので実際は軽っ軽。」と定義すると、精神の漬物石級のトラウマであっても気持~ち軽くなる。

 

とはいっても、「精神の漬物石・重量級。だがしかし、軽石製なので実際は軽っ軽」は、頻度が増すと鬱陶しさが募る。鬱陶しさばかりが募る出来事が頻繁に起こると、消耗も激しくなって実は重くもないから、水分、涙も出なくなる代わりにただ鬱陶しいし、重しにもならない。

 

軽石を漬物石に使うと消耗が激しくなるだけだから、要するに消耗狙い。消耗狙いが相手でラスボスだったら、たっぷり食べてよく寝て、スタミナつけて消耗に備えるのが大正解。と思いつつ、生のままでもじゅうぶん甘くて美味しいトウモロコシ摘まんでる。料理に使う前に、食べ切ってしまわないように用心しながら。

着るものくらいではどうにもならない。

寒さは着込めば何とかなるけれど、暑さは着るものくらいではどうにもならない。

 

札幌はこの夏いちばんの暑さで、いちばんの暑さなのに札幌に限らず夏休みはどこも短縮気味で、要するにこの夏の経験値は特殊で特別だから、特殊要因に基づいた数値はあてにならない異常値。

 

だから特殊要因に基づいた、あてにならない数値を叩き台にした意見もまた、異常であてになんかならない。

 

同じでくくった特定領域で、平均をぶっちぎって突出した数値は単なる異常値で、外部要因が入り込む余地が大いにあったら、外部からの介入が大いにあったってことになる。

 

何かを考える時にはやっぱり「なぜ?」から入るとわかりやすくて、見る人が見ればはっきりとわかる異常値を叩き出しているのか、叩き出せているのか。そこさえわかれば、あぁそうなんだと納得に変わる。

 

納得できる理由さえわかれば、異常値であっても再現は容易になって、容易だからよく似たものがあちこちに出没し始める。あちこちに出没するくらいだったら、実は異常でも何でもない。

 

目立つように目立つ場所に置かれただけだから、単なる目くらまし。

 

見つかって困るものや目立つと困るようなものは、そもそも目立つように目立つ場所になんか置かない。

 

30℃を超えると札幌でさえ暑く感じるけれど、風さえあれば本州に比べればたかが知れてる。札幌に限らず地方はどこも、風さえ通れば酷暑と言っても案外過ごしやすくて、過ごしやすいのは環境由来。

 

環境由来だから、環境が変わると風も抜けなくなって、暑さが厳しくなるほどにどこもリトルトーキョー化が進んで、リトルトーキョー化が進むと地方であってもどこも都市と似たような問題に直面するようになるのかも。

 

都市特有の問題といえば、あれにこれ。と、ピンとくるような人はそもそも都市を避けるようにすると、都市に特有のあれやこれとも可能な限り無縁なままで、酷暑であっても涼しい風にあたって涼しいままでいられるのかも。かもかも。

自分語り

大事なのは、今は夏休みだってことで、夏休みは日常と非日常が出会いやすい季節。

 

今年はちょっとアレだけど、休みに海や山やその他にわざわざ出掛けに行くのは、非日常と出会うため。非日常を求めている人たちだから、日常では見過ごしてしまう非日常にも目敏く気付く。

 

夏だから、冷っこい(ひゃっこい)口直しが嬉しいけれど、冷たくてもしっかり甘いものには糖分がどっさり入ってることは、作ってる側ならよく知っている。

 

ちゃんと冷たい。ちゃんと甘い。

 

だけど、100%天然のものだったら甘くても安心して人に食べさせられるし自分も食べられる。本来は苦かったり酸っぱかったりでそのままでは食べられなかった天然素材が、そのまんまでも十分甘くなるまでの改良工程を知ると、甘さもひと際尊く感じられるのかも。かもかも。

 

本来率先してモノを売るポジションの人が、広告取ってこられなかった時に始めるのが自己批判

 

という目で世間を眺めると、今までとはまったく違った景色が見えてくる。批判対象が自己なのは、モノを売るポジションだから。他者の批判はしない、批判するなら自己。

 

人前に立つ、あるいは出るポジションの人が期待されているのは、モノを売るお仕事。財やサービス、あるいは新しい概念でも何でも。広告塔となってモノを売るポジションの人はだから、極力他者の批判はしない。

 

広告塔をお願いした時に、辛口の批判しかかえってこなかったら、何にも売らせてもらえない。

 

何も売らせてもらえないけど、売る必要があってそのための売り場もあって、売り場に何かしらのモノを並べる必要はあるのに売り物がない時に並べるなら、まずは自己批判から。

 

時々見掛ける、一見すると順風満帆にしか見えないポジションの人が唐突にやらかす「ホントはホニャララがイヤだった」的な自分語り的なアレは、「売る気はあるから売り物チョーダイ」のサインで、“他者の批判”でメシは食えない・食っていけないのサインかも。

 

だから、対象が人でもモノでも他者の批判だけで本当に食っていけてる人やモノは、本当に他者の批判だけで食っていけてるポジションの人やモノだってことになる。

 

大抵の人は、他者の批判だけでは食っていけない。財政基盤が脆弱なほど、すぐに干上がる。だから、本当に他者の批判だけで食っている人やモノに対してはアンタッチャブル

 

触れてはいけない。近寄ってもいけない。ましてや、食い物にするなんてもってのほか。

 

そういうアンタッチャブルな存在をはっきり知覚できるのは、モノを売る立場の人があわよくばでうかつに近付き過ぎて、逆に売るものがなくなって自己批判を始めた時かも。

 

自己批判を始めたのなら、売る気あるから売り物チョーダイのサインで、リ・スタートのサイン。今だから話せる、本当はイヤだった自分語りや自己批判なんて、あの人たちやあそこから、聞いたことなんてないじゃない。という人やモノは、本当に自己批判なんて必要としてないし、必要がないってことさ。

 

あ~夏休み。