クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

悪目立ち

それは果たして日本語でしか表現できない内容なのかどうかが、近頃気になること。

 

試しに“精神の漬物石“をWebの翻訳サービスで翻訳し、出てきた英語をまた同じような工程で日本語に翻訳し直すと、途方もなくおかしなことになって、”精神の漬物石“からははるかに遠いものになる。

 

写真で見せれば一発なんだけど。

 

日本語に限らずどんな少数言語であっても、Webの翻訳サービスのようなフィルターにかけても大意が変わらない。InputとOutputがほとんど同じものがグローバル。InputとOutputから大きく内容が逸れたものは、グローバルじゃない。

 

外国製の見たことも食べたこともないお菓子を出身国の子どもに紹介するときに、ことばだけでしか紹介できない制約があったらではどうすりゃいいのさで、写真があれば一発なんだけど。

 

あるいは、そもそもお菓子に詳しい人なら似たようなお菓子を知っている可能性がより高くなり、見たこともないお菓子であってもより説明がうまくなる。

 

ベースとなるインプットにアウトプットへの配慮があれば、本来はグローバルから遠いものでもよりグローバルに近付いてわかりやすくなる。ベースとなるインプットが“精神の漬物石”のようにわかる人にしかわからない、ローカライズ要素たっぷりから出来上がっていると、グローバルから遠くなってただエキゾチック。

 

Input > Outputで、インプットに含まれている情報から余分なものを削ぎ落したアウトプットが、Input≒Output。

 

Input < Outputで、インプットに含まれていない情報が多分に含まれてローカライズされたアウトプットはInput≠Output。

 

わかる人にしかわからない、ローカライズに閉じている甚だしくグローバルへの配慮が足りないローカライズでエキゾチックなものを、そのまんまで均質化されたグローバルなものと並べると、悪目立ちする。

 

均質化されたグローバルななかでローカルを貫くのはそういうことで、そんなことはすっかり承知してる人たちが敢えてその手法を採るのなら、グローバルのなかのローカルは、そういうことなんだというお手本で、生き辛いことを示してる。

 

どうやっても数は増えない。

 

数に訴えても通じないし埋没していくだけの状況や環境で、ローカルを貫くだけだとただ悪目立ちするだけだからとグローバルな理解に寄せていくと、ローカル色が薄れていくのが早くなるだけ。

 

ローカル色が薄れてエキゾチックさも抜けていくと、グローバルな方からローカルに寄せてきて、グローバルとローカルが混ざり合って本来ローカルにはなかった伝統や習俗的な何かが、新しく生まれてくるんだろうと思ってる。