大事なのは、今は夏休みだってことで、夏休みは日常と非日常が出会いやすい季節。
今年はちょっとアレだけど、休みに海や山やその他にわざわざ出掛けに行くのは、非日常と出会うため。非日常を求めている人たちだから、日常では見過ごしてしまう非日常にも目敏く気付く。
夏だから、冷っこい(ひゃっこい)口直しが嬉しいけれど、冷たくてもしっかり甘いものには糖分がどっさり入ってることは、作ってる側ならよく知っている。
ちゃんと冷たい。ちゃんと甘い。
だけど、100%天然のものだったら甘くても安心して人に食べさせられるし自分も食べられる。本来は苦かったり酸っぱかったりでそのままでは食べられなかった天然素材が、そのまんまでも十分甘くなるまでの改良工程を知ると、甘さもひと際尊く感じられるのかも。かもかも。
本来率先してモノを売るポジションの人が、広告取ってこられなかった時に始めるのが自己批判。
という目で世間を眺めると、今までとはまったく違った景色が見えてくる。批判対象が自己なのは、モノを売るポジションだから。他者の批判はしない、批判するなら自己。
人前に立つ、あるいは出るポジションの人が期待されているのは、モノを売るお仕事。財やサービス、あるいは新しい概念でも何でも。広告塔となってモノを売るポジションの人はだから、極力他者の批判はしない。
広告塔をお願いした時に、辛口の批判しかかえってこなかったら、何にも売らせてもらえない。
何も売らせてもらえないけど、売る必要があってそのための売り場もあって、売り場に何かしらのモノを並べる必要はあるのに売り物がない時に並べるなら、まずは自己批判から。
時々見掛ける、一見すると順風満帆にしか見えないポジションの人が唐突にやらかす「ホントはホニャララがイヤだった」的な自分語り的なアレは、「売る気はあるから売り物チョーダイ」のサインで、“他者の批判”でメシは食えない・食っていけないのサインかも。
だから、対象が人でもモノでも他者の批判だけで本当に食っていけてる人やモノは、本当に他者の批判だけで食っていけてるポジションの人やモノだってことになる。
大抵の人は、他者の批判だけでは食っていけない。財政基盤が脆弱なほど、すぐに干上がる。だから、本当に他者の批判だけで食っている人やモノに対してはアンタッチャブル。
触れてはいけない。近寄ってもいけない。ましてや、食い物にするなんてもってのほか。
そういうアンタッチャブルな存在をはっきり知覚できるのは、モノを売る立場の人があわよくばでうかつに近付き過ぎて、逆に売るものがなくなって自己批判を始めた時かも。
自己批判を始めたのなら、売る気あるから売り物チョーダイのサインで、リ・スタートのサイン。今だから話せる、本当はイヤだった自分語りや自己批判なんて、あの人たちやあそこから、聞いたことなんてないじゃない。という人やモノは、本当に自己批判なんて必要としてないし、必要がないってことさ。
あ~夏休み。