クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

熨斗つけて返す

道徳の教科書にぴったりなお話の主人公は、大体いい子で善人。

 

いい子や善人が可哀想な目に遭うけど健気だと、健気だから聴衆や読者の関心を惹くパターン。ところで道徳の教科書を量産する側や、毎回お説教を聞かされる側の立場になると、ワンパターンは飽きてくる。

 

ワンパターンに飽きてる時は、アンチヒーロー的な造詣が魅力的に見えるから、短編小説家として名高いO・ヘンリーの作品のなかでは赤い酋長の身代金というお話が気に入ってる。気に入ってるから、遠い昔に読んだものなのによく覚えてる。

 

主人公は、可愛げのないクソガキ。

 

お金がなくて困った二人組に町一番のお金持ちの子どもが誘拐されるお話で、牧歌的な時代のお伽噺めいた設定のなかのできごとだから、ノーバイオレンスでノースプラッタ。

 

お金持ちの子どもを誘拐して身代金をせしめようとしたところ、誘拐した子どもがクソガキで、誘拐犯を怖がるどころかオモチャ扱い。道徳の教科書には、決して出てきそうもないキャラ設定。

 

一見道徳とは無縁に見えるお話ながら、命令することになれた側は決して命令される側にはならないし、見てる世界や感性がそもそも違うサンプルとして捉えると、道徳的にもとれる。

 

誘拐犯をオモチャにするクソガキが、誘拐犯の常識の斜め上をいくだけでなく、クソガキの親もやっぱりクソ親父。最終的にはクソガキに熨斗つけてクソ親父に返すことになるんだけど、家庭でも度し難いクソガキの無料のベビーシッターとして、誘拐犯を便利に使ってるようにもみえる。

 

クソガキだから、親としては誘拐されてもヘーキでむしろ居ない方が平和だと言わんばかり。クソ親父が家長として君臨する家庭内に、もう一人とかくやかましく命令するようなクソガキは要らないという設定は、仲良しこよしで互いに気遣い合うのをよしとする、道徳的な家庭の姿からははるかに遠い。

 

はるかに遠いんだけど、自分達とは住む世界が違う人達の感性は、案外こんなものかもしれないと納得しそうにもなる。

 

貧しいけれども互いに支え合う。道徳の教科書通りのお話が多いなかに紛れ込んだ、貧しくもなくわかりやすい思いやりのカケラも見えないお話は異質で、異質だから印象にも残るようになっている。

 

昔は、キャラ設定が面白くて愉快だとただ無邪気に楽しんでいた。だけど、異質なものを異質だからとさり気なく排除する、印象操作はこんな風にやるものなのかもと思うようになった。そういう意味でも、わかりにくいけど教科書的で道徳的。素直に愛情を注げないものたちには、注げないような器を与えてる。

 

人として超人なのは、だからやっぱり道徳を貫く方で、道徳を貫く超人は大体人間離れして見えるもの。

 

ワンパターンと言われようが何だろうと道徳を貫くと、人間離れしてるように見えて浮世離れしていくから、浮世離れしててもヘーキだった昔、現代よりも過去に還っていくんだと思ってる。

 

偽悪的に振る舞わないかぎり、道徳的な行為にも参加させてもらえない。道徳の教科書を量産する側でもなければ、説教を聞かされる立場でもない。そういうポジションなのにまわり道するくらいだったら、最初から昔に戻って素直に道徳を説いて素直に道徳に従った方が、すっきりする。

アナログから見る世界

都会と田舎、あるいは大人とガキ。

 

二項対立思考法の利点は、何といってもわかりやすいこと。わかりやすいから必要以上に違いを強調するけれど、典型的なパターンは実のところそんなに多くないことは、もうみんな知っている。

 

都会と田舎でいえば、都会のなかの都会に立地するのはまずはオフィスや商業施設、それにホテルだから、定住している住民はそんなに多くない。昼夜人口の差が激しいのが都会のなかの都会の姿。

 

そこに都会のなかの田舎、あるいは田舎のなかの都会まで含めると、都市居住者の数はとんでもない数になるけれど、無理に水増しした都会人は、ライフスタイルも好みも多様で一様じゃない。

 

大人とガキでいえば、あれで還暦過ぎてるんですか???という、外見からしてすでにそれまでの年齢や社会的地位から逸脱しているような大人を、年齢や社会的地位相応な大人と一緒にしてもいいんですか?という問いも立てられる。

 

もっといいもの、上等なものも高級なものも身に着けられるポジションの人が、いつまでたっても“好きなもの”しか身に着けないのは単に趣味やライフスタイルの問題で、敢えて分類すれば“大人でもガキでもない”。

 

大人は大人らしい外見でと言われたところで、大人でもガキでもない層が人口ピラミッドのなかのマジョリティだったら、世の中はマジョリティに合わせて変わっていく。

 

局所では、大人でもガキでもない>大人>ガキだと、ガキがマイノリティになるけれど、世界に目を向けるとガキはマイノリティじゃない。

 

こどもの頃から世界と接続していると、マジョリティのはずなのに局所ではマイノリティというポジションに自覚的になり、マジョリティとマイノリティを便利に使い分けるという風に適応するのが当たり前になるかもしれない。

 

還暦や還暦越えとは思えない大人がいる一方で、ガキとは思えないほど脳ミソの使い方が発達した、単に見た目だけが年齢相応な、身長も体重も伸びしろのあるガキだっているくらい、大人とガキという線引きもすでに多様化してる。

 

そういう環境で、敢えて二項対立軸を作って競争から生まれるエネルギーを糧にしようとしても、まず二項にまとめるまでひと苦労。

 

次に待っているのは、まとまった二項を対立させて競争させる苦労で、何でそんなことしなきゃなんないのさ???と、言われないような二項を見つけるのにもっと苦労する。

 

競争なき世界に敢えて競争を作り出そうと思ったら、よっーぽど上手な嘘つきじゃないとムリ。

 

嘘が通用しなくなった世界で嘘をつき通そうとしたらアナログに逃げるしかなくなり、アナログに追い込むようだと、嘘ついてるのはやっぱりアナログに追い込んだ方じゃん。ということになる。

 

競争なき世界はモノポリーの弊害で、モノポリーが崩れ、競争にメリットがあると自主的に理解しないとやっぱり競争によるエネルギーは生まれない。イヤイヤあるいは無理やり競争させて、競争を演出できてもエネルギーにはならず、競争を演出したコストはいつまでたっても回収されない。

抽象的な方は、元気いっぱい

耐久年数に賞味期限に寿命と、カタチあるものは大体有限で、有限だから終わりにできる。

 

耐久年数も賞味期限も寿命もカンケーないものって一体何さ???と考えると、大体抽象的なものに寄っていく。だから、耐久年数も賞味期限も寿命もカンケーないカタチあるものは、抽象的なものを具体化あるいは具現化したものになる。

 

抽象的でカタチのないものは掴みどころがなく、人によって理解も異なるから、抽象的でカタチのないものに対する態度も一様じゃない。

 

相対した時の態度が一様じゃなくても一向に構わないのは、理解が異なっていても構わず実害もないか少ないから。

 

実害を伴う、抽象的なものに相対した時の態度を誰でも同じにしたかったら、抽象的なものを具体化して、理解も一様で誰でも一緒になるよう仕向けていくことになる。

 

熱した油に指突っ込んだら、火傷する。

 

くらい平易にわかりやすく、抽象的なものに相対した時の対応も一様で誰でも一緒になると、熱した油を具体化あるいは具現化したものに無防備に指突っ込むような無謀な対応をする人もいなくなる。

 

あれは熱した油かそれとも銭の箱モノか。

 

モノの見方は人によって違うを、無防備に指突っ込んだら火傷する、熱した油状のものにまで適用すると、火傷する人が続出するだけ。だけど、銭の箱モノを常に求めてる側が効率を追求すると、たいていは熱した油にたどりつく。たどりついて火傷する。

 

何をどんな風に理解するのも自由っちゃ自由なんだけど。銭の箱モノと誤認した人が次々に指突っ込んで、火傷や大火傷する人が多数になれば、誰でもあれは銭の箱モノではなく単に熱した油だと理解する。

 

本来カタチがなく、耐久年数も賞味期限も寿命もないものにカタチを与えて具体化あるいは具現化させたのなら、終わらせるため。

 

カタチがないものを終わらせるよりも、カタチあるものを終わらせる方がずっーと簡単。だから、終わらせたいのに終わらないものは、余力がなくなるとともに続々と具体化あるいは具現化の道をたどり、終わりに近付いていく。

 

逆に抽象への道をたどるものは、余力いっぱいで元気いっぱいなものってことになる。

気が長いか短いか

他の人が気付くより前に、足りないものを足せる人は重宝される。

 

だけど、他の人もすでに気付いているしわかっている、欠けてるものを足して満たそうとする人は、重宝されるとは限らない。

 

みーんな気付いているのに欠けたままなのは、欠けさせているものだから。

 

欠けていると、壊れやすくなる。つまり、壊したくなった時にはラクに壊せるよう、わざと欠けを放置しているものかもしれないから。

 

壊して、作り直す。最初からそういう類のものだったら、時期が来た時には壊すか、壊しやすいよう欠けさせる。期限が切られているものは確実に壊し、期限の定めが緩やかなものは壊れるに任せる。

 

期限の定めが緩やかだから、壊れさせるに忍びないと再建を志す人が勝手に集うまで待つか、それとも壊れるに任せるか。いずれにしても期限の定めが緩やかなものは、持ち時間が長くて待てる人のやってることで、時間の流れ方がそもそも違う。

 

時間の流れ方がそもそも違うものを、期限が切られているものと一緒にすると、さらに時間の流れ方がおかしくなる。満ちてくるのを待って、欠けてくるのを待つ。そういうものは、満ち足り欠けたりが当たり前で、欠けたからといって大騒ぎする性質のものでもなし。

カップリング

人格や生活態度が、一般的な基準や水準から大きく逸脱していても生活そのものは破綻していない。

 

破綻するどころかむしろ水準以上だったら、生活を営む何らかの技術や技量は標準以上だってことになる。

 

人格や生活態度の向上と生活水準の向上がワンセットであることが推奨されるのは、パーソナルスペースが極端に狭いケース。常に人がひしめいていて、黒山の人だかりが即座にできがちなスペースでは、無作法を働くスペースも残されてない。

 

無作法を働くスペースがないから、人格や生活態度を磨いて不特定多数がスムーズに行き来できるよう設計する必要があるけれど、スッカスカな場所ではスムーズに行き来できるか否かは、気にする最重要事項じゃない。

 

だから常に人がひしめきがちなスペースでは、人格や生活態度が標準を上回る方に優先権を与えると、人の行き来はスムーズになる。人の行き来はスムーズになるけれど、生活水準の向上がセットかどうかはまた別のお話で、また別の設計が必要になる。

 

例えば電車男とショッピングの女王というカップリングは、大量輸送可能で不特定多数が行き交う場所では何でもよく売れる例として秀逸で、電車に限らず空港でも豪華客船でも通用する。

 

そもそも多数の人が行き交う場所では何でもよく売れるから、大量に売り物を用意できる側にいると、その立地を狙いにくる。

 

人がひしめくような場所では売り物さえ多数あればいいわけで、大量に作れるものしか売れないわけじゃなく、少量しか作れないものでもよければ、どこでも入手可能なものである必要もなし。

 

大量に売り物を用意できる側の人が、いつでもどこでも大量に売ってるものを愛用しているかどうかはまた別で、売り物と自家消費用は別モノという人はきっといる。

 

売り物は、売れるようにという制約や注文に応じて用意するけれど、自家消費用として愛用しているのは全く別のモノ。

 

という状態は極めて自然だけど、じゃあ自分では食べられない使えないものを商品として扱っているのかという話にもなりかねず、大量に売り物を用意する側それも責任の重い側が、自身のプライベートな嗜好をあからさまにするには、いろいろ具合が悪い。

 

プライベートを切り売りするなら、次々と好みをとっかえひっかえしていくとその種の不都合は解消されるけれど、そもそも消費には興味が薄いと、好みのものも次々には見つからない。

 

空港も鉄道も港も。そもそもは輸送のためで、ショッピングのためだけの場所じゃない。輸送が先でショッピングは後付けだから、ショッピング目的の人やモノで輸送が滞ってスムーズに運ばないのなら、スムーズに運ぶためには優先順位が生まれる。

 

人格や生活態度といった、生活水準とは本来無関係のものが輸送や人の行き来といった局面で優先されるのは、だからすべては人の行き来をスムーズにするためのもの。何らかの反省がなきゃ、そんな発想はそもそも生まれてこない。

 

ショッピング目的で作った場所なら、輸送のための準備はできていてもショッピングの女王か王様(あるいはプリンスかプリンセス)を連れてこないと、機能しない。

ひとつ増えたところで

心にいつまでもわだかまっている悪感情が「恨」で、植物を地中にとどめているのが「根」。

 

右側にある“つくり”の部分は、どちらにしても「とどまる」の意味。心にひとつ加わると左側にある“へん”の部分は木になって、いつまでも地中にとどまる根っこになる。

 

いつまでもわだかまり続ける悪感情を抱えた心に、何かがプラスされると根っこになって地中にとどまるのなら、その土から生まれたものは何だかおっかない。いつまでもわだかまり続ける悪感情を帳消しにするくらい、大いなるプラスじゃないとプラスのイメージには転換しない。

 

負の歴史を打ち消すような、どどーんと立派な建物が建つのはだから、プラスに転換することを願ってのもの。

 

どどーんと立派な建物を建てたいという願望が先で、そのあとに負の歴史が生まれたのなら、いくら立派な建物を建てたところでプラスのイメージにはそう簡単に転換しない。

 

目に見える立派な建物よりも、目に見えないイメージや雰囲気の方が勝る。目に見えないイメージや雰囲気を自在に操られると、いくら建物を立派にしようと立派な建物を作ろうと、砂漠に撒く水になる。

 

いっそ、本当の砂漠だったらいいんだけど。

 

地面のお値段がお高いはずの場所で時々見掛ける、地面のお値段がお高いはずの場所には不釣り合いな建物は、だから目に見えないイメージや雰囲気が勝利してる場所で、目に見えないイメージや雰囲気を操るのが得意な側のものだと思えば納得する。

 

資本主義の最前線ともいえるような場所では、その種のミスマッチは今ではもうあんまり見掛けない。最前線ではイメージや雰囲気は、通用しなくなってることがよくわかる。

 

イメージや雰囲気が通用するのは、資本主義の最前線からは遠い場所さ。

制限付き

3年、7年あるいは30年や時には100年も。凝りもせずに長々と。

 

近代以前のヨーロッパの戦争は気が長くて、長々と戦争ができたのは戦地も戦闘員も限定された、“制限戦争“だったから。という解説をどこかで読んだけれど、確認しようにも出典は定かでなし。

 

限定された戦地で、限定された戦闘員だけが行うから制限戦争。

 

近代以前だから、移動手段はせいぜいお馬さん。武器を手に馬に乗って、あるいは徒歩で出陣していく戦闘員よりも、鋤や鍬といった生産手段を手にした、戦闘とは切り離された非戦闘員の方が多数だったから、いわばのんびり気長に戦争ができた。

 

第一次大戦で近代戦争に突入すると、武器の近代化とともに戦闘員の損傷も激しくなり、ぶっちゃけ死者が増えた。近代以前の制限戦争とは比較にならないほどだったんだとか。

 

戦場も限定されていなければ、限定された戦闘員だけでは足りないから、本来手には鋤や鍬の非戦闘員まで駆り出すようになると、人的被害は生産現場へのしわ寄せとなって現れる。

 

それまでの制限戦争では考えられなかった範囲にまで被害がおよぶから、制限なき戦争の被害は甚大。

 

例えば内戦もそうで、あれは戦地の拡大とともに総力戦に突入し、戦闘員も非戦闘員も関係なく無縁でいられる人がいなくなるから、被害は底無し。底無しだから、内戦を経験した国はどこも深い傷を負う。

 

鋤や鍬といった、生産手段の代わりに武器を与えて拡大した戦場で闘いだったら、武器の代わりに鋤や鍬といった生産手段を与えると、理屈の上では戦場も闘いも縮小する。

 

戦場は縮小するけれど、戦場の減少を許さないほど戦争で潤う産業が膨張し、膨張した産業に国の経済が依存していたら、戦場の縮小あるいは戦線の縮小は、どう考えてもすんなりいくわけがない。

 

戦場で生まれ、戦争で潤い膨張した産業は大体しぶとくて、現代風に言えば“大学生が就職したい企業ナンバーワン”だったりするわけで。

 

有為かつ優秀な人材が、戦争で潤い膨張する産業や企業をめざさなくても済むように、より魅力的な企業を有為で優秀な人材の前にニンジンとして与えるのは、だから理にかなっていて、理にかなっているから後世から振り返ると、戦争が産業振興に貢献したようにも見えてしまう。

 

とはいえ産業振興となるのは、人的被害が広範に及んで経済を傷つけて、なかでもとりわけ有為かつ優秀な人材に甚大な被害が及ぶからで、人的被害を食い止めるという動機が生まれない限り、産業振興には向かわず産業破壊に留まるのかも。

 

内戦から立ち直れない。そういうケースはだからきっと、人的被害を食い止めるよりもむしろ、人的被害が拡大するのを止めずに積極的に放置したから。なのかも。という個人的な仮説をもとに、”制限戦争”の出典はどこだったかな?と気長に探しましょ。