クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

コスト

ブルジョワになると保守化すると金持ち喧嘩せずは、ニアリーイコールで相似形。

 

喧嘩イコール紛争に読み替えて。紛争のあとに待っている賠償金負担やあるいは復興にかかるコストが頭に入っていたら、売られた喧嘩であってもそう簡単に買うわけにはいかず、フツーはブレーキがかかる。

 

あっちにもこっちにも喧嘩を売って回るのは、だからコストが頭に入っていない何よりの証拠。ついでにコストが頭に入ってない相手にコストをかけるのは、だから砂漠に水を撒くようなもの。

 

ブルジョワになったら保守化するのは、守るものがあったら慎重になるという極めて自然な態度で、だから守るべきものがある側はいつだって慎重。

 

一生涯食いっぱぐれる心配なんてなさそうな、ブルジョワ中のブルジョワになるとまた別かも知れないけどさ。

 

一生涯食いっぱぐれの心配皆無なブルジョワと、一生涯食いっぱぐれそうな持たざるものとは、慎重になる理由も保守化する理由もないという点で相似形。守るべきものがない、あるいは何があっても守られるなら、慎重になる理由なんてないから。

 

常にコスト度外視で、あっちにもこっちにも喧嘩を売って回ってる。

 

一見すると一生涯食いっぱぐれそうな持たざるものでありながら、その実体は一生涯食いっぱぐれの心配皆無なブルジョワだとわかっていたら、そんな相手から売られた喧嘩は買った方が高くつくだけだから、スルーするに限る。

 

コスト度外視に見える好戦的な態度も、実は精緻なコスト計算の賜物だったらどうしましょ。

 

紛争後に待っている賠償負担やあるいは復興費用といったコスト移転のため、つまりコストのためだったら、敢えてコスト度外視な手段をとることも辞さない。それくらい日頃からコストについて考え抜いている相手と、コストについて一度も考えたことのない相手とだったら、勝負になんかなるわけがない。

 

だから、コストについて日頃から考え抜いている側が喧嘩相手に選ぶなら、コストを度外視しがちでコストを考えない相手に限る。喧嘩するなら、賠償金が見込める相手やコストが肩代わりできそうな、勝てる相手とだけ。そういう態度を貫いていたら、一見すると常勝軍団が出来上がる。

 

理屈の上では弱者が居なくなった時、弱者を食い物にしていたのがどういう種類の人だったのかがよくわかる。食べるものがなくなったら、共食いを始めるから。

より好み

コネに縁故にリファラルに。呼び方はいろいろあっても、要するにこれらはより好み。

 

より好みが許されるのは、そこがプライベートだから。プライベート100%だったらより好み100%でも本来なら無問題。

 

好き嫌いが支配する世界で好きを磨くのは、正攻法。だから嫌いを貶めることに精を出すのは、正攻法とは真逆の方向性。好き嫌いは表裏一体で、好きに磨きをかける手法を反転させると、そのまま嫌いを貶める手法になる。

 

だから、好き嫌いが支配する世界は結局のところワンパターン。

 

多様性に欠けるから、想定外に対しては対処できなくなる。ワンパターンであらゆる事態に対処しようとすると、表裏一体の一枚岩をどこまでも大きくしていくことになる。

 

ところが際限なく膨張することはできず、どこまでも大きくなれないことがすでにわかっていたら、ワンパターンは選べない。

 

あらゆるパターンに対処しようと思った時、好き嫌いのワンパターンだけだと選択肢が限られる。好き嫌いよりももっと幅広く選択肢を用意するのは、あらゆるパターンを想定しているから。

 

不況なんて誰にとっても嬉しくない事態だけど、あえていい面を見つけようとしたら質が上がる。

 

稼ぐ必要のある人やモノは仕事を選んでられないから、それまで選ばれずにスルーされてきたような場所も、瞬間的に質が上がって底上げされる。とはいえ底上げに貢献できるような人やモノは、ミスマッチな場所にたまたまやってきただけだから、無駄に長居しない。

 

その人たちまでダメ出しするんだったら、もう絶対ダメじゃん。

 

というようなモノや場所には執着も長居もしないから、淘汰も進む。淘汰が進むから全体のレベルも底上げされて質が向上したのは、そういや不況の時だったね。

 

という故事を懐かしく思い出す向きにとっては質を上げる好機で、好況が続いたあおりで質が下がって淘汰も進まず、どうしようもないよりはるかにマシ。と、思う人が想像以上に多いと、空前の大不況がやってくるのかも。悲観は気分で楽観は意思で、意志あるところに道は開けるとか言うからさ。

練習

練習は裏切らず、練習量に比例してだいたい何でも上達するのは、たいていの人は天才じゃないから。一度で完璧にできるなら、練習なんていらない。

 

練習やハードトレーニングといった努力の部分を見せない話さないだけで、練習してないように見えても、見えない場所でわからないようにこっそり努力を重ねてる。見えない場所でわからないように積んだトレーニングの成果をお披露目するなら、目に付く場所で。

 

練習やハードトレーニングの場とお披露目の場。それぞれを分けて接続しないようにすれば、一見すると練習もトレーニングもしてないにも関わらず、熟練した達人のように見えて、才能が際立って見える。

 

才能のあるなしなんて、ほんとはどんぐりの背比べであってなきがごとし。

 

あってなきがごとしだと、単に図々しいだけで態度が大きいだけの方が才能に驕ってるように見え、才能で世の中渡ってきたように見えるから、そういう態度でいる方がやっぱり才能に恵まれているのかと錯覚する。

 

結構簡単に、世の中の人は騙されるものなんだ。

 

と、自覚すると驕った態度にも拍車がかかる。見えない場所で密かな努力を重ねて才能を磨くのか。それとも目立つ場所で驕った態度をこれ見よがしにして、磨きがいのある才能の原石がここにあるよとアピールすることに時間を割くか。

 

誰かの才能を磨きたい人 > 自ら才能を伸ばしたい人という構図が明らかだったら、生存戦略としてアピールに時間を割くのはある意味正しい。

 

社会が年を取って、未経験な若年よりも経験豊富な年寄りの方が明らかに増えると、誰かの才能を磨きたい人の方があからさまに多くなり、増えるからあぶれるようになる。あぶれることが早くからわかっていたら、磨く側にいるより減りゆく磨かれる側に回る方がお得でひとまずあぶれることはなく、あぶれるのも先になる。

 

いつどんな時でも、風下に立つのをよしとしない。そういう人は気位が高いといってもまず間違いはなく、間違いなく気位が高いとある意味扱いやすい。

 

気位の高さが邪魔をして、絶対やらなさそうなことと喜んでやりそうなことがモロわかりになるから。喜んでやりそうなことを餌にして、絶対にやらなさそうなことへと誘導するのがより簡単になる。

 

気位が高く、一見扱いにくいようでいてその実とっても扱いやすい。その種の人を上手に掌のうえで転がすのを得意、あるいは趣味にしながら、複雑骨折した自身のプライドを癒すツールとして使い潰す。

 

というツールは、いつでも最先端の人に事欠くことはない。最先端にいるから気位の高さが先鋭化して、先鋭化したら思うツボで、あとは絶対にやらなさそうなことが待っている場所へと誘いながら、次の最先端を待つようにできている。

 

その種のツールを上手に使いこなすのにも練習は必要で、小さな場所から始めてより目立つ場所へ。目立つ場所に忽然と現れたように見えても場数は踏んでるから失敗がなく、失敗がないから、忽然と現れた新星であっても新鮮味には著しく欠けるんだよね。

痛みはこらえない

それがどうした。あるいは、それが一体何ですの?に勝ることばなんて、ちょっと思いつかない。

 

特定の民族に固有なものであるわけがなく、普遍的な感情だから、基本どこの国でも通じるユニバーサルなもの。書きことばより話しことばで頻出するあたりも、きっとどこでも一緒。

 

とはいえツラの皮が相当ブ厚くないと、いつどんな時でもそれがどうしたで突っぱねるわけにもいかず。痛みをこらえて頑張り抜くと、大抵は自滅が待っている。

 

年齢あるいは経験相応にツラの皮がブ厚くなっていないと、それがどうしたで突っぱり続けるには無理がある。ツラの皮を速攻でブ厚くするために、罵詈雑言しか待ってない場所に無防備に放り込めば、ツラの皮がブ厚くなるより先に、精神がもたないし身体がもたない。

 

温室育ちや箱入りで大事に育ててきた大事なものは、無防備に千尋の谷に突き落としたりなんかしない。痛みをこらえて頑張り抜くと、待っているのはたいていの場合自滅だから、自滅に誘うために谷底に突き落とされる。

 

本人にはどうしようもない、変えようもない属性で理由なく嫌われる。

 

そういう属性持ちを、嫌うに決まってる連中が待ち構えているなかに無防備に放り込むのは、教育でもトレーニングでも何でもない。

 

単なる気晴らし。

 

単なる気晴らしのために、嫌うに決まってる相手に何らかの理由があって大事な何かを託さざるを得なかったら、バランスを取るためにウチの中では必要以上に甘やかす。それくらいしないと、温室育ちや箱入りはもたない。

 

厳しい環境におかれた温室育ちや箱入りの生存本能が目覚めすぎると、嫌うに決まっている連中との同化が素早く進む。嫌うに決まっている連中との同化が進むだけだったら、せっかくの温室育ちや箱入りも台無し。

 

温室や箱入りで育ててきたからこそ育まれてきた、何か。

 

その何かが温室でも箱入りでもなく育ってきた何かと素早く同化してしまえば、最初からそんなものはなかったかのように扱われる。民族浄化ってそうやるんでしょ?場当たり的でその場しのぎにしか過ぎないのは、対象のことをなーんにも考えてない何よりの証拠。

 

温室や箱入りで育てるのは、そもそも育ちにくいから。

 

抜いても抜いても勝手に生えてくる、生命力が必要以上に旺盛なものだったら、わざわざ大事に育てたりなんかしない。大事なものを育んでいるという自覚があれば、必要以上に大事にするさ。その過保護な行為がかえって反感を呼び、一層辛くあたられることが予想できたらそうする。

 

そういう環境だったら、そうなるのは当然ね。というものが、そうならなかったからレアものさ。

ご機嫌な時の鼻歌はご褒美

ストレスが溜まると金遣いが荒くなるんだよね、この人たち。

 

という属性持ちをできるだけ一ヶ所に固め、荒くなった金遣いで落ちてきたお金をキャッチして、キャッチしたお金をストレスに手加減を加えるための調整弁として使うと、理屈では半永久的にお金が回り続ける。

 

誰かを愉快にする方が難しくて、不愉快にするのはとっても簡単。

 

誰かや何かを愉快にすることで対価を得ていると、愉快にしているという実感も報酬の一部となって、自尊心を高めるのにもお役立ち。誰かを愉快にしているという実感が積み重なることで、自尊心も確かなものになって向上する。

 

自分の作ったものが、ご機嫌な時の鼻歌となる。あるいは仏頂面が笑顔になる。

 

その種の経験は勝手に自尊心を高めてくれるから、自尊心を高めるあるいはモチベーションをキープするために、過剰に何かに依存することもない。

 

自分の作ったものが、確実に誰かや何かを不愉快にしている。誰かや何かを不愉快にすることで対価を得ていても、自尊心は高まらないし満たされようもないから、何か、例えば消費(有体に言えば無駄使いやな)のようなものに過剰に頼ってハマるようになる。

 

世の中に不機嫌の総量が増えた時と、ご機嫌の総量が増えた時と。

 

どちらがより消費が旺盛になるかといえば、きっと不機嫌の総量が増えた時。不機嫌の総量が多い時ほど個人消費は旺盛になって盛り上がるという肌感覚や、あるいは確固たる裏付けとなるデータがあり、その通りに実践したらどうなるか。

 

ムリヤリ競争社会ランキングに参加させられると、ストレスがたまってたいていは不愉快になる。水を得た魚で、たまーにはいきいきピッチピチな人もいるかもだけどさ。

 

ストレス発散が、旺盛な個人消費に向かうのか、それとも生産に向かうのか。

 

ストレスが溜まると生産に向かう人と、

ストレスが溜まると消費に向かう人。

 

両者を上手につないだ美味しいポジションにいる人にとっては、世の中に不愉快の総量を増やすという動機が生まれる。

 

生産と消費。そのどちらも各々の役割に飽きて、生産量や消費量が落ちてきたら、プレイヤーを入れ替えればいいだけ。そしたらまた、勝手に活性化する。

 

プレイはしない。そういう立場から、お金の総量や何を作って世の中の空気を動かすかを考えつつ、各プレイヤーに深く浅く干渉してる。そういう風に見えるんだけどさ。干渉が過ぎると、そりゃ嫌われるさ。

 

一気に春めいて、シラカバ花粉もそのうち派手に飛び回りそうだから用心してる。

 

新しいものと古いもの

ピョートル大帝といえばちょっと変わった、ロシアの近代化めざして改革を進め、近代化に成功した人物として知られてる。

 

彼は、外国にやっても修道院に入れても守旧派に利用される恐れのあった自分の息子を墓場に送った。つまり、処刑しちゃったんだとか。

 

後継者を自ら処分するなんて。

 

この時代の近代化といえばヨーロッパ化で、近代化めざして近代化に成功しても、やってることは野蛮で残酷。野蛮で残酷であろうとそれがどうしたで、息子よりも、近代化あるいは近代化をめざした改革の方がずっーと大事。と、野蛮で残酷な手段を敢えて選びながら、昔には戻らないと内外に知らしめたんだから、やっぱり変わってる。

 

息子を殺してでも改革をとったという大義は、改革を進めるのにお役立ちで、守旧派を一掃するのにもなお一層お役立ち。

 

事実その後のロシアは、いわゆるヨーロッパの大国で先進国とはまた別の大国へと進化していく。

 

右向け左で後ろ向いて、左向け右で正面向いてあっかんべー😝と舌を出すような人物は、何言ったって素直に言うことなんて聞きゃしないから、放っておいても大丈夫。ところが品行方正で素直で真面目だと、担ぐために口先達者でたぶらかす術に長けた相手の術中に落ちるとひとたまりもない。

 

親が多大なる犠牲を払って進めた改革を、その子供をシンボルに立てて改革を逆行する便利な道具に使われたらたまんない。

 

歴史上に“大帝”として名を残すような人物のここぞという時の判断は、やっぱり常人の理解を超えている。

 

この、改革という“新しいもの”をとって息子もろとも“古いもの”と決別したという故事は、都合よく剽窃するのにピッタリで、色々とバリエーションが考えられる。

 

ぜーんぜんまったく新しいものでも何でもないんだけど。“新しいもの”を標榜して本当はそっちの方が新しいものを“古いもの“として断罪する。

 

あるいは、肉親への愛情よりも改革に対する情熱を優先させることで、フツーの人じゃない超人アピールに役立てるとか。

 

古いものに通じている人は時として、古いものを盲目的に信仰しているから古いものに通じているわけじゃない。現代でも使えそうなものはないかと、まず利用ありきという邪心とともに古いものに通じようとする時もある。

 

純粋な興味よりも邪心や邪念に勝っていることが明らかな相手を前にした時、何をどう伝えていくのか。

 

オーラルヒストリーは、場合によってはその場限りで、その場限りだから伝えたいことを伝えたい相手にだけ伝えられる。だから、何をどう伝えていけばいいのか迷いが生まれるような時には見直されるのかも。

 

その場限りだからと見くびって、噓八百を並び立てる。そういう輩が目立つようになるとまた別の揺り戻しが起こって、限られた少数以外の人に知ってもらっても全然構わないことは構わないこととして、広く知らしめる手段が見直される。何をどう伝えていくのを担う場は、常にその繰り返しなのかも。

数を増やせばわからなくなる

周辺の物価を考えると、激安。というお店は、もともとはその値段だったらお買い物できるという層がターゲット。その値段じゃなくてもお買い物できる層がほとんどになったら、無理してお店をやっていく意味も薄れる。

 

その値段だったらお買い物できるという想定客のためなら無理はできても、その値段じゃなくてもお買い物できるという想定客のためには無理も続かない。だから、住民が入れ替わるとともにお店も新陳代謝していく方が健全で、すでに住民層は入れ替わっているのにお店だけ新陳代謝しないままならどこかで無理を重ねてる。

 

ある時代ある場所に、どう考えても周辺の環境からすれば激安というお店がそこにあった意味。その意味が分かる人がこっそり立ち回り、計算しながら過渡期を支える側に回ってた。という来歴は、大々的に宣伝するものでもないと考える人は最後まで黒幕のまま。

 

黒幕のままを選んで決して表には出てこないという事情を知っていて、アレ俺・私となーんの関係もない誰かがその立場を剽窃したら、どう考えても怒られる。

 

ルネッサンス様式で思い浮かべるのは、洗練され完成された歴史的建造物の一群で、ゴシック様式で思い浮かべるのは、洗練よりも武骨さが目立ち、どこか粗削りな歴史的建造物の一群。

 

見られると、磨かれていくもの。だからルネッサンス様式の歴史的建造物の一群が、世界級観光都市に多く残されているのも納得で、昔っから大勢の人に見られる場所に建てられたものだから、洗練されているし完成度も高い。

 

武骨で粗削りなのは、最初から大勢の人に見られるような場所に建てたわけでもなければ、大勢の人に見られることを想定もしていないから。

 

武骨で粗削りなものは、大勢の人に見られることを想定せずに、ただ見たまま経験したままをそのまんま表現しているだけ。時に完成度も低くて特にオチがなくても、意味のある何か、例えばストーリーを込めることなんて考えてもいないから、オチがなくても不自然じゃない。

 

武骨で粗削り。納得しやすいオチもエンディングもなくても、それが他に説明のしようもないできごとを表現していたら、それがありのまんま。武骨で粗削りなままの表現が許される場所は、武骨で粗削りなまま、うまく説明なんてできっこないしつくはずがないできごとを表現するのにちょうどいい。

 

うまく説明なんてできっこないしつくはずがないできごとを表現する場だから、それが生まれてきた。

 

そう考えると納得するものは、目を凝らせば意外と多く見つかるもの。うまく説明なんてできっこないしつくはずがないできごとであっても、想像以上に多数の人が経験していると、そのうち解説がとびきり上手な人の手にかかって上手な説明がつくようになるのかもね、かもかも。

 

怖がらせる、あるいは怒らせるつもりの行為も、もうっまたオモチャにしてる!プンプンっ!という反応しか引き出せなかったら、恐怖や戦慄からはほど遠い。プンプン!という反応しか引き出せない怖がらせ役は役に立たないから、お役御免になってもしょうがなく、お役御免になってヤッターと喜んでそう。