クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

数を増やせばわからなくなる

周辺の物価を考えると、激安。というお店は、もともとはその値段だったらお買い物できるという層がターゲット。その値段じゃなくてもお買い物できる層がほとんどになったら、無理してお店をやっていく意味も薄れる。

 

その値段だったらお買い物できるという想定客のためなら無理はできても、その値段じゃなくてもお買い物できるという想定客のためには無理も続かない。だから、住民が入れ替わるとともにお店も新陳代謝していく方が健全で、すでに住民層は入れ替わっているのにお店だけ新陳代謝しないままならどこかで無理を重ねてる。

 

ある時代ある場所に、どう考えても周辺の環境からすれば激安というお店がそこにあった意味。その意味が分かる人がこっそり立ち回り、計算しながら過渡期を支える側に回ってた。という来歴は、大々的に宣伝するものでもないと考える人は最後まで黒幕のまま。

 

黒幕のままを選んで決して表には出てこないという事情を知っていて、アレ俺・私となーんの関係もない誰かがその立場を剽窃したら、どう考えても怒られる。

 

ルネッサンス様式で思い浮かべるのは、洗練され完成された歴史的建造物の一群で、ゴシック様式で思い浮かべるのは、洗練よりも武骨さが目立ち、どこか粗削りな歴史的建造物の一群。

 

見られると、磨かれていくもの。だからルネッサンス様式の歴史的建造物の一群が、世界級観光都市に多く残されているのも納得で、昔っから大勢の人に見られる場所に建てられたものだから、洗練されているし完成度も高い。

 

武骨で粗削りなのは、最初から大勢の人に見られるような場所に建てたわけでもなければ、大勢の人に見られることを想定もしていないから。

 

武骨で粗削りなものは、大勢の人に見られることを想定せずに、ただ見たまま経験したままをそのまんま表現しているだけ。時に完成度も低くて特にオチがなくても、意味のある何か、例えばストーリーを込めることなんて考えてもいないから、オチがなくても不自然じゃない。

 

武骨で粗削り。納得しやすいオチもエンディングもなくても、それが他に説明のしようもないできごとを表現していたら、それがありのまんま。武骨で粗削りなままの表現が許される場所は、武骨で粗削りなまま、うまく説明なんてできっこないしつくはずがないできごとを表現するのにちょうどいい。

 

うまく説明なんてできっこないしつくはずがないできごとを表現する場だから、それが生まれてきた。

 

そう考えると納得するものは、目を凝らせば意外と多く見つかるもの。うまく説明なんてできっこないしつくはずがないできごとであっても、想像以上に多数の人が経験していると、そのうち解説がとびきり上手な人の手にかかって上手な説明がつくようになるのかもね、かもかも。

 

怖がらせる、あるいは怒らせるつもりの行為も、もうっまたオモチャにしてる!プンプンっ!という反応しか引き出せなかったら、恐怖や戦慄からはほど遠い。プンプン!という反応しか引き出せない怖がらせ役は役に立たないから、お役御免になってもしょうがなく、お役御免になってヤッターと喜んでそう。