クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

磨き過ぎなくてもいいやつ

地方よりも都会でより顕著なのは、傲慢。

 

人やモノ、勝手に過剰に流入するのが都会だから、傲慢と言う性情は都会ほど磨かれやすくて先鋭化もしやすくなる。

 

都会では顕著な傲慢の影が薄くなってなりを潜めていると、都会っぽさも薄れて地方色が際立ち、いい意味での地方色が目立つようになる。

 

都会は何しろ都会で人もモノも勝手に流入してくるから、数に勝る多数の方を見てる。

 

公共交通機関が発達して、無料で原則誰にでも開かれているイベントが随時開催されて、無料で過ごせて寛げるスペースも豊富に用意されているのは、多数の方を見ているから。選択と集中による選択の結果が公平で中立だと、公平も中立も成立しやすい。

 

選択と集中による選択の結果がもしも先鋭化した傲慢だったら、公平も中立も遠くなる。

 

公平でもなければ中立でもない。傲慢さを隠しもせず露わにした何かのもとに集うのは、最初から公平も中立もめざしてない態度。

 

本来公平や中立が成立しやすい場所の方が、生きやすくて生き延びやすいはずの何かが、傲慢さを隠しもせず露わにした何かのもとに集っていたら、何かがおかしい何よりの証拠。

 

だって、相手は傲慢じゃん?

 

地に働けば角が立ち、情に掉させば流されて、意地を通せば窮屈になるもんだと明治の大文豪も言ってるくらいだからさ。

 

意地を張り通して窮屈なままでいようとすると、ついには最も頭下げたくないはずの相手にも頭下げる羽目になるのかもね、かもかも。

 

暖かくなったかと思えば雪が降ったりと、安定しない天気が続いてる。とはいえ例年よりずっーと早くに雪解けしたから、遅い春支度も例年より前倒しで、そろそろ桜も咲きそう。蕾は日増しにほころんで、梅も桜も何もかも。いっせいに花咲く日も近そう。

 

梅も桜も何もかも、ついでに地面にも色とりどりのカラフルな花が一斉に咲く。北国の春景色は、何回経験してもここでしか味わえないものだから、いい。

見通し

冷蔵庫や冷凍庫の中は、こまめに料理をする人ほど空っぽになりにくい。

 

こまめに料理はしないから、入ってるものといえばわずかな調味料と飲み物だけ。みたいな家庭の冷蔵庫や冷凍庫だったら、いつでもスッキリ見通しよさげ。こまめに料理をするようになると、冷蔵庫や冷凍庫の中はゴチャゴチャしがちで見通しも悪くなり、使わないまま冷蔵庫や冷凍庫の主となって、オヤ?どれくらい???と、なりがち。

 

1ヵ月に1回程度は冷蔵庫や冷凍庫を空っぽにする習慣をつけると、いやでもあるもので何とかする料理の腕は磨かれて、在庫が積み上がったままになることもなし。

 

買ったはいいんだけど、使わないんだ。。というものは、食べ物を粗末にするなと刷り込まれていると潔く捨てることもできずに、在庫として貯まりがち。一般家庭ならそれでもいいんだけどさ。

 

賞味期限という目に見える形で捨て時がはっきりしていたら、企業のような組織になるほど在庫は抱え込みにくくなり、捨てなきゃならなくなる。

 

だから家庭的な個人商店っぽい形態になると、家庭ではないのに家庭っぽく捨て時が来たものも抱え込みがちになって、一見するとゴチャゴチャと見通しも悪いままになるのかも。その辺りに人となりが如実に表れて、人となりを如実に表してるにもかかわらず、イエローカードやレッドカードを一方的に振りかざすのはどう考えても悪手。

 

悪手だから、最初から握手なんてするつもりもきっとなし。握手するつもりなんてなく悪手ばかりを繰り出してくるなら、最初からやりたいのは握手以外のことやもの。

 

蝶よ花よとチヤホヤされ慣れてきたか否かがよくわかるのは、こんな時。

 

蝶よ花よとチヤホヤされてきて、事実として蝶や花、キレイなものを見たり触れたりするのを好んでいたら、わざわざ“泥沼の”と形容詞がつきそうな場面や場所、あるいは物騒なものには好んで近寄らない。好んで近寄らないはずのタイプが、泥沼や物騒な場所の近くに出没していたら、罰ゲーム的なものなのかも。

 

泥沼や物騒な場所で待ち受けているのは、いつもいつも、握手するつもりなんてなく悪手だけを繰り出してくるタイプだったら、本当のところはどうであっても第三者から見たらそう見える。

 

どう見てもやらなさそうなタイプにばかり目を付けて、次から次へと握手なんてするつもりなく悪手ばかりを繰り出してくる相手のもとに送り込むのは、一体どういう遊びなんだか。

 

自然豊かな場所で、どっちに行こうか迷った時。自然豊かな場所ながらも生活の痕跡、人の気配がわずかでもしたら、そっちを選ぶ。自然豊かな場所で人の気配もせず、生活の痕跡も薄い方で待ってるのは、どう考えても人より人ならぬものである可能性が高いから。

 

一見すると自然豊かに見える場所でも、人が安心して出歩けるのは人の手が入っているから。自然が勝っていると、とてもじゃないけど無防備にブーラブラなんてできっこない。

ここ掘れ、わんわん

狼に育てられた少女というワードでピンと来るのは、きっと一定以上の年齢に限られる。国民的少女漫画の劇中劇にもなっていたから、知っている人は知っている系の、知らなくても全然恥じゃない系のお話というかネタ。

 

狼に人間の子が育てられるのか???といった、真偽不明の要素が多分に含まれている、現在地点から見ると眉唾エピソードも豊富だから、今さら真面目に検証する人もいなさげ。実在したのか否かという事実の検証に取り組むよりも、どうしてあのお話が生まれたのかと考えた方が面白い。

 

舞台は第一次大戦後、1920年代のインド(ということになっている)。だからあれは、教化目的で征服民族が被征服民族と遭遇した時には起こりがちな出来事と捉えると、個人的にはしっくりくる。

 

教化というタスクを請け負っているのは、孤児院を営む一神教の伝道師。教化というタスクを請け負うのにもっとも自然だからたまたまそうなってるだけで、本当に孤児院を営んでいる必要も本物の伝道師である必要もない。ただ何かを教えるのに不自然でない職業が、選ばれてるだけ。

 

1920年代のインドだったら、まだまだ地方豪族、藩王にも勢いがあったんじゃないかと思われる頃。インド全体を支配する誰かの首がすげ変わっても、中央とはまた別の時間が流れていたら無問題。

 

だから教化対象の狼に育てられた少女は、その土地の庇護や保護を強く受けた者で、何しろ生まれ育ったホームグラウンドなんだから、征服民族の前でも無防備でノーガード。征服民族の前で見せる多神教世界しか知らない無防備でノーガードな振舞いは、一神教しか知らない無知な征服民族から見れば野蛮で洗練からはほど遠く、野蛮で洗練からは遠い振る舞いを動物に擬せたから、狼に育てられたことにしてみたのかも。

 

その頃のインドならすでに大陸横断鉄道も完成済みかもしれず、陸上輸送や移動手段が手軽で簡便になると、エキゾチックな土地に入り込んでくる層も変わって、お手軽で簡便になる。最初期の大名旅行でわざわざ僻地にまで足を運んだ、お金と暇と教養を備え、博物目的で見聞を広めたいような層とはきっと違う。

 

教化という技術には欠けるまま教化というタスクを請け負った、教化目的の征服民族が無防備でノーガードな被征服民族を無理に教化しようとすると、無防備でノーガードな被征服民族は、教化を通じてただダメージを受けるだけ。

 

狼に育てられた少女の話は、そういう教訓めいたエピソードとしても受け取れる。

 

無防備でノーガードで教化対象になり得るものは、教化という技術に欠けるまま教化というタスクを請け負う輩には、うかつに近づくもんじゃない。という教訓めいたエピソードは、征服民族はおっかないというイメージの流布にはぴったりなんだけど、時代は第一次大戦後で、征服民族の優位性だっていつ崩れるかわからない頃だったというところがミソ。

 

よーく観察すれば、単に利便性がよくて便利な土地で、有効利用が見込める。そういう場所なのに、近付くと危険あるいは危ない目に遭うぞと必要以上に脅しつけるのは、よーく考えなくても地上げ目的の人がよく使う手段。

 

うっかり近付くと危ない目に遭うぞと必要以上に脅しつける方は、じゃあその場所には近寄りもせず、ましてや居住するなんてもってのほかのはずなのに、なーんでその場所に固執するのかといえば利用価値があるからに決まってる。

 

征服民族の優位性だって、いつ崩れるかわからない時代情勢のなか。教化目的の征服民族が教化対象の被征服民族を動物のように扱い、教化なんて果たせずただダメージを負わせるという怖いお話は、マイナスイメージを広めるのにお役立ち。

 

教化は、技術のあるものが行うから効果がある。

 

在野で教化というタスクを請け負ったものよりも、正規の教化機関で教育機関が行うとより効果があり、マイナスイメージを帯びた怖いお話が流布するほどに、正規のものに対するプラスイメージは高まっていく。

 

生まれ育った土地でのーびのび。という地方豪族や藩王に近くなるほど、征服民族が営むといえども正規の教育機関に対する心理的障壁も低くなり、低くなると越境も厭わなくなって高等教育への道も開かれやすくなる。教える方としても、地方豪族や藩王とお近付きになると、何らかのメリットがあったに違いない第一次大戦後の揺れる世界。

 

ホニャララ(←偉い人)はお疲れですし、いささかでも軍事に関することについては一切お話できません。という認識が、いつ頃から始まるのか知らないけどさ。

 

話せないことが増えるとその代わりに、真偽は確かめようもない、何かに見立てたよくできたお話が重宝されるのは間違いない。

 

北米では、大陸横断鉄道が完成したことで、それまで半年はかかっていた大陸横断が一週間ほどでできるようになったんだとか。急いで移動したいし、急いで運びたい。そういう欲求が、極限まで高まる時期を舞台にしてるってところがまた、興味深い。

パッカーン

住んでる街があって国があって、国の属するエリアがあって。

 

例えば北海道札幌市なら、道民という意識が先かそれとも市民という意識が先か。あるいは、もっとでっかく国民という意識が先か、さらにいえばアジアの一員という意識が先か。

 

アジアの一員という意識が育まれるのは別のエリア、欧米やオセアニアあるいはアフリカといった別のエリアとの遭遇を経てるから。例えばフォークよりもお箸を使う方がしっくりきて、しょうゆや味噌味に安堵して、洗い場と浴槽が別になった湯船にゆっくりつかると安心するのはそれらに馴染んでるから。

 

馴染みのある習慣を奪われた後で初めて、馴染んでいた習慣に気付くもの。

 

今だったら、欧米でもオセアニアでもあるいはアフリカあたりでも。箸もしょうゆも味噌もお風呂っぽいスパも、まったくないわけではないに違いないけどお手軽からはほど遠い。そもそも似たような習慣を持つエリア内だったら、馴染んでいた習慣に近いものもより手に入りやすい。

 

アジアの一歩先、地球市民という意識は、四大陸下手したら五大陸のものだって、その気になれば簡単に手に入る環境から生まれて育まれる。そういう環境が想像もできなかったら意識は内へと向かって内向きになり、エリアの一員よりも国民よりも市民あるいは区民、さらにいえば町民レベルで世界を計るようになるのかも。

 

廃藩置県が決まって、馴染んだ藩名からいきなり馴染みのない都道府県名を押し付けられて戸惑った時の気持ちは、きっと平成の大合併で馴染みのない市や町名となった時の気持ちと一緒。

 

それなりの来歴があって別の名前を選んで各々独立していたエリアが、一緒になったからといってすぐに一枚岩になれるわけがない。

 

今では同じ名前になった都道府県や市や町も、丁寧に来歴を遡ってみれば水利やその他をめぐって反目した過去のひとつやふたつあるいはもっと、ほじくれば出てくるもの。

 

一見すると強固に見える一枚岩も、見る人が見れば割れやすい、あるいは割りやすい筋目が見えるんだろう。いつもいつも、とっても上手に一枚岩を砕いてきた。揉め事をほじくり返し、ほじくり返した揉め事を取っ掛かりにして一枚岩を砕き、砕いた一枚岩のどこかに落ち着きどころを見つけてきた。

 

その種の壊し屋さんは、砕かれたから別の場所で一緒になるしかなかった、砕かれたけれど再び一緒になれる場所で新たな一枚岩を作り、壊し屋を待ち構えていた何かに先回りされると、今度はあっけなく壊される。

 

割る一枚岩のサイズに合わせ、大きくなっていった壊し屋さんも、壊されたあとはダウンサイジングして、また小さな一枚岩を割る作業から始めるんだよ、きっと。

マレビト

余剰だとわかりつつやってる側はものわかりがいい一方で、余剰だと認めたくない側はものわかりが悪くなる。

 

リッチな気分を存分に味わえる贅沢品が、手の届きそうなところにあったのなら、金は天下の回りものだから経済を回すために、誰かがわざとそうしてたのさ。

 

マレビトを歓迎する環境かどうかは、マレビトをどう捉えているかで丸わかり。残された肖像画ではことさら醜く描かれている偉人が、本当は描かれた通りの見た目かどうかは怪しいもの。同時代には嫌われる出自ながら偉人にまで出世した場合は、同時代には表立って非難することができなかった鬱憤を込めて、実際以上に醜く描かれがちだから。

 

マレビトを迎え入れる側にはすでに強固な社会階層ができあがっていたら、マレビトはなにしろ稀だから、入るスキマを見つけるのにも苦労する。スキマがないからてっぺん獲った。という成り上がりは、何しろ成り上がりだから下からの支持は厚くても上からの支持は得にくいもの。

 

上、支配階層の支持が薄かったら、スキマがないからてっぺん獲った偉人その人がいくら偉大で能力的に優れていても、率いる組織は組織として強くなれない。支配階層で支持が広がらなかった証拠のひとつが、後世にまで残されたことさら醜く描かれた肖像画。気に喰わない出自のマレビトに率いられるのは真っ平とばかりに面従腹背がまかり通っていたら、規律ある組織なんて維持できないし、できっこない。

 

スキマがないからてっぺん獲った偉人その人がいくら偉大で能力が高くても、マレビトはやっぱり稀にしか登場しないから、マレビトに率いられた組織は短命に終わりがち。あるいは、偉人その人がいなくなった後は組織も傾くものなのかも。

 

肖像画以外でも、例えばマレビトにどのような名付けをするかにも、マレビトをどう扱う環境かが丸わかり。漢字圏だったら、どのような漢字を与えるかにすっかり現れている。例えば、雅さなんて感じようもない夷狄とか。

 

とはいえ見下した気持ちを込めて呼んでみた相手が、稀とはいえ集団、それも民族だったらまた話は別。

 

稀に到来する相手とはいえ、相手が集団で民族だったら、彼らはすでに彼ら固有の支配階層も備えていれば、統治の手順も備わっている。単体で出現する不世出のマレビトに比べれば、その稀さ加減はグンと落ちるとはいえ、集団は集団。いちから組織を作らなければならない不世出のマレビトに比べたら、強い組織を作る上ではずっと有利。

 

不世出なマレビトは、どれほど尽くしてもその出自を理由に正当な評価を与えない出身地よりも、出自を問わずに正当な評価を与えてくれる、出身地とは遠く離れた場所をめざすようにできている。

 

マレビトがいなくても回る強固な組織では新しいことはできないから、我こそはマレビトなりと思う人材の流出が続くと強固なはずの組織もガタガタになって、マレビトを進んで迎え入れてきた新興との逆転も起きるのかも。かもかも。

 

悪いことは何でもみーんな、外から来たマレビトのせいにして乗り切ってきた。かっちんこっちんに石頭な組織がマレビトを喜んで迎え入れた時は、やっぱり悪いことは何でもみーんなマレビトのせいにして押し付けるためにわざと招き入れた。くらいに思っておくと、余計なことにも面倒なことにも巻き込まれない。

 

旧悪は、マレビトのせいにできない状態になるとすっかり露わになるもんさ。

引継ぎ不可

本当なら新学期で新年度。

 

だったけど、今年はスロースターターになっちゃったから、ビギナーのトレーニング期間もたっぷりとれるはず。いつもの新学期や新年度に比べたら人出も人混みも激減したから、新しい環境に新しい役目とすべてが一新する側にとっては例年よりきっと優しいスタート。

 

優しい人が設計すると優しい仕組みが出来上がり、冷たい人や厳しい人が設計すると冷たくて厳しい仕組みが出来上がる。

 

喜怒哀楽といった、感情に強く訴えてくるものは感情をより強く揺さぶるもの。

 

でも、いつもいつも、例えば何十年も怒って哀しんでいるのは同じものだったら、それは単にアピール上手なだけ。アピールが上手でも、そこでアピールしている怒りや哀しみは借り物で、しょせん借り物でよそ事だから、長きに渡って怒り続けるあるいは怒ってたり哀しんでるようなフリが上手にできるだけ。

 

怒髪が天を衝くほど本当に怒っていたら、そんなに長続きするわけないじゃん。

 

当事者がとっくに昇華したネガティブな感情を、今さらかつことさら刺激してもっと怒れあるいは哀しめとけしかけにくるようなら要注意。局所的に人手不足は解消されつつあるらしいけど、職種によってきっと隔たりはある。人手不足は解消されつつあっても、後継者不足はまた別で、後継者難に悩んでいるところは絶賛今でも状況は変わらないはず。

 

ネガティブな感情を糧に大きくなってきた。あるいは、高く遠くへ飛んできた。その種のものは雇用の調整弁にはもってこいで、もってこいだけあって一時的には誰でもできるけれど、長くは続けられない。だって、四六時中ネガティブな感情と一緒なんてたまんない。

 

たまんないから、後継者には事欠かない状況や次々に後継者が現れる状況はちょっと想像しにくい。

 

お世話になった、あるいは迷惑をかけられたという個人的な感情は、何しろ個人のものだから引き継げない。特定個人や組織の持つネガティブやポジティブな感情を、ことさらあるいは今さら刺激するのは、本来引き継げないはずの感情を引き継がせようとしてるからだと勝手に思ってる。

 

動物愛護法ができて若干状況は変わったかもしれないけど、犬や猫、捨てる人はいつも一緒で、捨てない人は捨てない。

 

大きくなるためのエンジンとした、あるいはおかげで高く遠くへ飛べましたというネガティブな何かも、捨てる側はいつも同じで、捨てない人は捨てないのもきっと一緒。ついでに、ポジティブな何かはポジティブである限り、いつまでも手許に置いておくから、遠慮なくネガティブな何かが捨てられる。

 

引き継げないものは、引き受けない。引継ぎ不可と判断して引き継げないようにするのは、いつもいつも勝手に捨てられていくのを見ていた方。その場合、いつもいつも勝手に捨てていく方のことなんか、知らんがな。という仕組みになるのは、当たり前っちゃ当たり前。

鬼は外で福は内

四月になって暖かくなり、スプリングエフェメラルの片鱗がちょびっと見られるにも関わらず、季節感のないタイトルをつけてみる。

 

祇園八坂神社から駅の方で鴨川が流れてる方を眺めた時の左側、通りを挟んだちょうど対面のあたりには昔、八百文というレトロなフルーツパーラーがあった。

 

平成が始まってすぐの頃にはまだあったはず。その後は、周囲の環境に配慮して自己主張を抑え気味にした店舗デザインのコンビニができて、その後はどうなったか知らね。すぐ近くのバス停の背後、通りからはちょっと引っ込んだ場所には学校があり、どうやら廃校になった後はミュージアムになっているらしい。

 

目に見える街の景色もずいぶん変わったけれど、その間にもっとも変わったのはきっと地面のお値段。八百文があった頃やそれ以前には、その周辺で働き暮らしていた人向けの暮らしもあったはずだけど、学校が消えたということは暮らしも消えたっていうこと。

 

懐かしいという感情は、懐かしさを共有してるから生まれるもの。

 

同じ時代、同じ場所に生きていても懐かしいと思うものが一緒とは限らない。しょっちゅう眺めていたものが実際に歩ける場所ではなかったら、懐かしいと思う対象もすれ違う。

 

かつての生活の集合体みたいな場所がポッカリ空白になって、空白になった跡地が細切れになるよりは、まとまった形で何か別のものになった方が昔もしのびやすい。歴史というほど御大層でもない来歴は、御大層ではないかわりに等身大で、等身大だからありのままが詰まってる。

 

祇園八坂神社から徒歩圏内は、昔も今も観光客が押し寄せる、超メジャーな観光スポットがめったやたらとあるエリアだから、観光地の目立つ場所に建つ個人宅はそりゃもう立派な大豪邸で、大豪邸しかなかった。

 

明治の元勲や財閥の流れを汲む、あるいは一代で財をなした人や成功者のお宅しかないようなエリアにあった大豪邸ともなると生活の匂いが希薄で、そもそも人が住んでるのか否かもわかりにくかった。そんな中の一軒には個人や法人含めて幾つも、下手すりゃ10くらいの表札が掛かっているお宅もあって、相続で揉めてますという看板ぶら下げていた。

 

どう考えても今後値上がりしかしそうにないまとまった土地を、個人で所有してたら揉め事にしかならない、いい見本だった。かといって、どういう形でならそもそもの豪邸所有者の希望が叶ったのか。死んだ後のことなんて知らねーだったら、それはそれでいいんだけどさ。

 

揉め事に決着がつかないと、決着がつくまで来歴にも係争中の来歴が刻まれ続けるだけ。

 

親類縁者がそれぞれに相続権を主張して譲らないから係争が長引くのなら、親類縁者は居ない方がいい。居ない方がいいけれど、そもそも存在するものを無きものにするのは無理だから、存在する限りファミリーツリーは育つばかりでキリがない。

 

キリがつかないファミリーツリーは、だから枯れるまで待つか切られてしまう。どちらにしても待てる人限定で、待てない人が切る。

 

今も昔も世界で最もよく読まれるベストセラーといえば、聖書の類だと思ってる。読むに限らず見るでもいいんだけどさ。読む読まない、見る見ないに限らず信者は勝手についてくる。お金、無くなりました~で終わりにするわけにはいかない事業を抱えていたら、必ず一定の需要が見込める信者ビジネスに寄っていくようになってるんだと、これもまた勝手に思ってる。

 

一定の需要は見込めて収益は出るんだけど、その収益は終わりにするわけにはいかない事業のために使うものだから、個人がその収益に対して所有権を主張することはない。

 

養成コースなんて知らんがなで、勝手に育って大きくなったのなら別だけどさ。終わりにするためにはいかない事業のために、わざわざ時間とお金をかけて鍛えて売り出した個人だったら、“個人の才覚“は認めようがない。個人じゃなくて、単なる偶像だから。偶像に、権利はない。権利はないから、すべてを終わりにするわけにはいかない事業のために使える。

 

鬼は外で福は内が、言い得て妙だと思うのはそんな時。

 

簡単に作れる鬼には稼げるだけ稼いでもらい、その収益である福は内輪のもので内輪で使うから福は内。鬼、悲しいね。悲しいから、鬼の権利を代わりに主張してくれる誰かが見つかるまで鬼は鬼のまま。

 

悲しい損な役回りだから、鬼の権利を代わりに主張する親類縁者はいらないのが福をぶんどる福は内側の理屈。その理屈でいくと、鬼は親類縁者がそもそも居ないものから選んでおくと、終わりにするわけにはいかない事業側にとって万事都合がいい。

 

終わりにするわけにはいかない事業の恩恵は、ありがたいばかりじゃないから鬼は外で福は内のカラクリを知ると、勝手に人が離れて新陳代謝も進む。新陳代謝が進んで、ビジネス色がくっきりはっきりするまで待つのは待てる人のお仕事で、それもはや単なるビジネスでしょ?と言われないように、終わりにするわけにはいかない事業を抱えてる側は、次から次へと新しい理由を探してくるのさ。

 

あるいは、ビジネス色がくっきりはっきりしたものは本体の終わりにするわけにはいかない事業とは切り離し、また新たな器で同じことを始めるだけさ。

 

いつまでたってもビジネスにはならないから本体とは切り離せず、人も離れないから新陳代謝も進まないものは、そのままでありのまま。