クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

練習

練習は裏切らず、練習量に比例してだいたい何でも上達するのは、たいていの人は天才じゃないから。一度で完璧にできるなら、練習なんていらない。

 

練習やハードトレーニングといった努力の部分を見せない話さないだけで、練習してないように見えても、見えない場所でわからないようにこっそり努力を重ねてる。見えない場所でわからないように積んだトレーニングの成果をお披露目するなら、目に付く場所で。

 

練習やハードトレーニングの場とお披露目の場。それぞれを分けて接続しないようにすれば、一見すると練習もトレーニングもしてないにも関わらず、熟練した達人のように見えて、才能が際立って見える。

 

才能のあるなしなんて、ほんとはどんぐりの背比べであってなきがごとし。

 

あってなきがごとしだと、単に図々しいだけで態度が大きいだけの方が才能に驕ってるように見え、才能で世の中渡ってきたように見えるから、そういう態度でいる方がやっぱり才能に恵まれているのかと錯覚する。

 

結構簡単に、世の中の人は騙されるものなんだ。

 

と、自覚すると驕った態度にも拍車がかかる。見えない場所で密かな努力を重ねて才能を磨くのか。それとも目立つ場所で驕った態度をこれ見よがしにして、磨きがいのある才能の原石がここにあるよとアピールすることに時間を割くか。

 

誰かの才能を磨きたい人 > 自ら才能を伸ばしたい人という構図が明らかだったら、生存戦略としてアピールに時間を割くのはある意味正しい。

 

社会が年を取って、未経験な若年よりも経験豊富な年寄りの方が明らかに増えると、誰かの才能を磨きたい人の方があからさまに多くなり、増えるからあぶれるようになる。あぶれることが早くからわかっていたら、磨く側にいるより減りゆく磨かれる側に回る方がお得でひとまずあぶれることはなく、あぶれるのも先になる。

 

いつどんな時でも、風下に立つのをよしとしない。そういう人は気位が高いといってもまず間違いはなく、間違いなく気位が高いとある意味扱いやすい。

 

気位の高さが邪魔をして、絶対やらなさそうなことと喜んでやりそうなことがモロわかりになるから。喜んでやりそうなことを餌にして、絶対にやらなさそうなことへと誘導するのがより簡単になる。

 

気位が高く、一見扱いにくいようでいてその実とっても扱いやすい。その種の人を上手に掌のうえで転がすのを得意、あるいは趣味にしながら、複雑骨折した自身のプライドを癒すツールとして使い潰す。

 

というツールは、いつでも最先端の人に事欠くことはない。最先端にいるから気位の高さが先鋭化して、先鋭化したら思うツボで、あとは絶対にやらなさそうなことが待っている場所へと誘いながら、次の最先端を待つようにできている。

 

その種のツールを上手に使いこなすのにも練習は必要で、小さな場所から始めてより目立つ場所へ。目立つ場所に忽然と現れたように見えても場数は踏んでるから失敗がなく、失敗がないから、忽然と現れた新星であっても新鮮味には著しく欠けるんだよね。