クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

語って託す

札幌にしては蒸し暑い日。きっと不快指数も今シーズンで一番高いに違いない。

 

あんまり蒸し暑いせいか、鳩や雀が土の中に埋まって丸くなり、じっとしながら涼をとっていた。温められた空気は上空へと昇っていくものだから、空よりも土の中の方が涼しいんだな、きっと。北国育ちの鳥は、北国育ちの人と同じく暑さには耐性なさげ。

 

昔々、北海道開拓が始まったばかりの頃は、札幌でも今よりもっと水利が発達してたんだとか。市中を南北に流れる創成川は、街中、二条市場近辺では細々とした流れだけれど、北に行くほど流れはやや立派になって石狩川と合流し、最終的には石狩湾へと流れ込んでいる。

 

木材やその他、新都市建設に必要な物資を運ぶ水路として使われていたとは信じられないほど、現在の創成川の流れは細々。街中になればなるほど細く、道路が発達して水運が馬車や車といった陸運に取って代わられるほどに、現在のような細々とした姿に変わったのかも。

 

川の一部を埋めたり細くしたりせず、できたら往時のままの方がよかったのに。

 

と、現在の細々とした流れを生かした創成川公園を通るたびにそう思う。往時はどのくらいの川幅だったのか知らないけどさ。もしも今よりもっと立派な流れだったら、現在の創成川公園ももっと広々として、市民や観光客の憩いの場や軽い運動の場として、もっと賑わってたかもしれないのに。

 

そう思うのは観光客目線だからで、長く現地に住む人からはきっと違う意見も出る。

 

都市、それも観光地の繁華街にも近い場所に自然に近い場所があると、社会や文化の影響を受けていないという意味での自然人も自然と集ってくるだろうから、悩ましい。

 

都市のど真ん中に自然を取り戻そうとする試みは、日常生活が自然とはほど遠い人にとっての癒しになるからで、想定利用者としては日常生活が社会や文化の影響下にある人だと思ってる。

 

日常生活が社会や文化の影響下にある人が想定利用者だから、お弁当やランチを食べたり、本やスマホをいじりながら暇つぶししたり。あるいは、ひなたぼっこやお昼寝におしゃべり、軽い運動といった姿を思い浮かべるのが一般的。想定外の使い方、例えば愚行権を行使したり、愚行をアピールする場所として使うのはちょっと違う。

 

愚行をアピールしたり、愚行権の行使に熱心な側は、いつでも上手にそんな場所を見つけてくるんだけどさ。その種の行為に使われるくらいなら、柵で囲うか更地にするか。あるいはいっそ、有料化して利用者を選別するか。

 

誰でも憩えて集える場所は、愚行権の行使なんて想像もしなければ想定内の使い方しかしない人も、安心して使えるようになっている。愚行権の行使やその他に使うためで、想定内の使い方しかしない人はお断りなら、そこは誰もが集えて憩える場所じゃない。

 

観光客目線で現在の細々とした創成川を見るたびに、かつては新都市建設に必要な物資がここを行き交ってたとはとても信じられない。信じられないけれど、かつてのように水運が復活して、観光目的の船が例えば石狩川までのんびり行き交うようになったらちょっと面白い。冬季には雪に覆われるから、夏限定なんだけど。

 

今では水陸両用のボートもあるから、船で行けなない場所は陸路を行けばいいだけで。

 

かつてはそうだったという来歴は、観光を理由や目的にするとよりやりやすく、今となっては語る人もおらず、耳を傾ける人もわずかな知る人ぞ知る歴史は、観光に託して語ると伝わりやすい。

 

一般には広く知られてるわけでもない、秘された歴史のよき聞き手は観光客だから。観光地に行くと、へぇと思うような逸話込みで何かのモニュメントが残されていることがあり、観光バスや観光船にも、時には語り部が乗っている。

 

そもそも文章としてまとめにくい、まとめたとしても流通させにくいけれど後世に残したい。そういう細々とした歴史は、口伝に託して継承させると案外長持ちだったのかも。

 

ついでに書く場所は奪われたり無くなったりするけれど、口だけは最後まで閉じないし、閉じない口を閉じさせるのは難しいから、きっと長持ち。

お守り代わり

中間層が消滅する理由は簡単で、お金持ってない人はお金持ってる人が好きだから。

 

食うや食わずで持たざる人の声に耳を傾けたら、お金が欲しいあるいは仕事が欲しいという返事が返ってくる確率は跳ね上がる。欲しいのならあげましょうと、欲しかったものをくれた人に対しては、相応の礼儀でもって報いようとするから、持たざる人と持てる人が接近する。

 

欲しいのならあげましょうと、仕事あるいはお金がポンと出てくるような人は桁違いだから、桁違いの恩恵を受けた持たざる人は、中間層をすっ飛ばしてお金を持ってる側に周る。すっ飛ばされるから、中間層が消えてゆく。

 

嘘かホントか知らないけれど、年齢があがるほどに反保守の傾向が見られるとの分析には一理ある。年金で生活できる人たちは、言ってみれば潰れない会社に再就職を果たしたようなもの。生活不安と縁が薄い人たちは持たざる人じゃないから、持ってる人だからといって無闇に持ち上げたりしないし、する必要もない。

 

お金が欲しいや仕事が欲しいの代わりに、暇つぶしになるものが欲しいという返事が返ってくる確率は跳ね上がり、暇つぶしするなら社会貢献もできるものがいいとなって、保守に寄るよりも反保守に寄ると思えば違和感はない。

 

ただし反保守となって身銭を切っていられるのも、潰れない会社に再就職を果たしたからで、潰れないはずの会社が潰れそうになったら事情は変わって掌返してもやっぱり違和感なはない。

 

生活不安と縁が薄い、薄かったはずの人たちに掌を返された反保守であっても、その頃には中間層をすっ飛ばしてお金持ってる側にまわった世代が育ってきてるから無問題。欲しかったものをくれた人に対しては、相応の礼儀でもって報いようとするから、保守の対抗軸として反保守に寄るくらいなんでもない。多分。

 

社会を変えるツールとしてのお金の長所をフル活用し、お金と仕事が欲しい人に欲しいものを行き渡らせたら、次はより高次な次元で社会を変えるツールとしてお金を活用することができる。

 

はずなんだけど。

 

数が増え過ぎると秩序が乱れ、社会を変えるツールとしての法定通貨の価値も損なわれる。社会を変えるツール、法定通貨じゃなくてもなれるしできるじゃん。となったら、法定通貨ありきで整備してきた社会基盤整備というロードマップが崩れるから目の敵にされる。

 

差し迫った生活不安とは縁が薄く、暇があって、なおかつ反保守寄りのクラスタ向けのものを扱ってる人たちは、見込み顧客が減った時にはどうするのか。商売替えするなら現実路線で、いないなら作ろうで顧客の創造に熱心になるなら非現実路線。

 

そもそも現実離れしていて生活臭が薄い。あるいはまったく生活臭がしない側にいると、非現実路線との親和性もより高くなる。生活臭がうすいと非現実路線に目を付けられがちで、目を付けられがちだから、めいっぱい生活の匂いを振りまいておくのはお守り代わり。

目的はクリアー

バンドやろうよ!と言い出すタイプは、たいてい自身が最も目立つ場所、ボーカルやセンターで活躍したいからそう言い出すもんだと思ってる。

 

最も目立つ場所で活躍したいから、僕・私をより輝かせてくれる仲間集めにも熱心で、前のめり。前のめりな気持ちや行動が、その気のない人を動かすこともあるけれど、逆効果になることの方がきっと多い。追い掛け回されたら、イヤになる。

 

そもそもその気のない人は冷めているから、やろうよ!と持ち掛けてきた人ほどには熱狂もせず熱意に感染もしていない。だからやろうよ!と持ち掛けてきた人の利己的な振舞いをいち早く見抜き、深手を負う前に離れていく。

 

成果の配分が不平等だったり、裏方的なバックオフィス業務はないがしろで不平不満が募るようになると、何のためにやろうよ!という呼び掛けに応じたのかもわからなくなってくる。何のためにやってるのかわからなくなった時が分裂の時で、会社のような組織に置き換えてもきっと通じる。

 

バンドやろうよ!と言い出すタイプは、スタートアップで創業者になって脚光を浴びたいタイプと大して変わりゃしないと思ってる。ふんだんな先行投資がないと、結局は生き残りさえ難しいという生態系もよく似てる。

 

一人が二人、二人が三人になって芋づる式に仲間が増えていき、一緒にやると楽しいからと気付けばビッグバンドになったような企業や組織は、成果の配分もバックオフィス業務の振り分けも上手で、上手だから大きくなれた。上手だから不平不満が出ないということではなく、不平不満の処理の仕方、いなし方が上手で下手しない。

 

そもそも目立ちたがりの人が、いつでも最も目立つ立場、例えばボーカルでセンターというポジションを失いたくなかったら、環境を整える。やりたいことは目立つことという、自身の願望に正直で率直なほど、環境整備にも熱心になるもの。

 

目立ちたいという自身の願望には正直で率直であっても、目立つ立場に居続けられるような地味で労の多い環境整備から目を背けると、一緒にやると楽しいからとせっかく増えた仲間も減っていくばかり。

 

数が増え過ぎると、成果の配分やバックオフィス業務あるいはフロント業務の振り分けも、以前と同じでは済まなくなる。以前と同じようにはいかないからと、環境の再整備ができたらメンバーの数が増えても無問題。環境を再整備するよりも現状維持を選び、数は増やさず大きくならずに済ますのも解決方法のひとつ。

 

その場合は大きくなれなかったというよりも、大きくならない方を選んだだけ。

 

大きくなり過ぎない方を選び、円満に分裂しただけでゆるやかな繋がり、人的交流その他でつながりは保たれたままだったら、何かあった時にはまた一緒になれる。必要な時だけ結集し、必要のない時にはつながらない。でも何かがあれば、呼び掛けに応えてまたひとつの大きな集団となる。

 

組織や会社を、大きくするのも小さくするのも自在で思いのまま。思いのままにそのつど目立たせる必要のある何かを大きく目立たせるのが、化け物の女房。

 

鬼や化け物のような存在は、描きやすく表現しやすい存在で作りやすい。描きやすくて表現しやすい存在を、自在に作り出し化け物を動かすエンジンとして餌を与えるのが、女房役のお仕事。

 

この会社が何のためにあって何の役に立っていて、どの辺に需要があるのかよくわからない。という企業や組織(あるいは商売)はだいたい化け物の女房役で、よりわかりやすくよく知られた存在の影なんだと思って偏見の目で見てる。

 

目立ちたかったけど、大きくなれなかったスタートアップ。あるいはビッグネームになれなかったどなたかさん方のセカンドキャリアとしても、ピッタリじゃん。

 

この種の人たちのためのセカンドキャリアを用意するというお仕事を、ボーカルでセンターというポジションを得るまたは失わないための環境整備活動に含めておくと、社会貢献の一環でもあるから理解されやすい。何のためにあって何の役に立っていて、どの辺に需要があるのかよくわからない存在であっても。

 

何のためにあって何の役に立っていて、どの辺に需要があるのかよくわからない存在のために、鬼や化け物役をスカウトするのも女房役のお仕事。ということにして、鬼や化け物役を当のセカンドキャリアのために用意された場所から適宜ピックアップできれば、永久機関になれて永遠に食いっぱぐれはなさそ。

 

食いっぱぐれないところが最大の魅力となるお仕事には、そもそも食いっぱぐれを心配する必要のない人ほど食いつきゃしないだろうけどさ。

 

ボーカルでセンターというポジションで輝きたい人は増えたのに、彼らを輝かせるためのエンジンが足りないと、食いっぱぐれや社会不安を煽って餌となるエンジンを増やしそうな雰囲気さえある。化け物や鬼、あるいは化け物や鬼の作り手だけにさ。

 

だから、何のためにあって何の役に立っていて、どの辺に需要があるのか。クリアーになってると、胡散臭さからも解放されるってもんよな。

あれ、オレ詐欺の見抜き方

巨大だったり、完成まで時間がかかっているものは、そもそも誰が「作った」と言えるんすかね。

 

総監督・総合プロデューサーのような立場の人が何度も入れ替わり、監督やプロデューサー的立場の人のもと、数え切れないくらい大勢の人が作業に従事した。その後ようやく完成に至ったような場合は特に、製作者や制作者としてただ一人の名前しか出なかったら違和感がある。

 

本当に最初から最後までたった一人で、長期間に渡って大作の制作や製作に携わっている場合は無問題で、成果物の分配で揉めることもない。ついでに、たった一人でも大作を作れる人なら、大作以外のものに取り組んでも無問題。好みやポリシーとして、大作にしか興味がないという人は別にして。

 

名義貸しは、その名前を借りるとより多くの注目が集まり結果としてより多くフトコロが潤うから重宝される。だから名前を貸す方は、その名が汚されないような相手を選んで貸さないと、せっかくの名声が台無しになる。

 

勝手に名前が使われるのも名声のある人ならではで、あるある。

 

名声を台無しにされたくなかったらその名を貸せと、自身は決して名声を得られず悪知恵を働かせる輩なら、そう考えてもおかしくない。言ってないことも言ったことにされ、やってないこともやったことにできるから、情報操作手段としてフェイクニュースが重宝されて量産される。

 

嘘かホントか知らないけれど、今では画像や音声付きで、より巧妙に作り込まれてるとか。

 

より巧妙に作り込まれたものを、多くの人を欺くためにより多くの人の目に晒すか晒さないか。どう判断して行動するかに、判断した人の思想やポリシーが現れる。

 

今はまだより多くの人が信頼している。そんな歴史と歴史にふさわしいバックグラウンドを持つ媒体や組織の、名声を汚すような行為にわざと出る。信頼が地に堕ちて損なわれてしまえという負の感情でもなきゃ、そんなことしないしできない。

 

個人の意趣返しのように見せ掛けながら、ただのいち個人がそんなことできるわけないじゃん。という大掛かりなお芝居を進行させたり横行させるには、現在のヒエラルキーや価値観をひっくり返したいという、大望でもなかったらそもそも実行できないししない。

 

大作の責任者としてただ一人の名前を出しても無問題なのは、分配金の配分で揉めることはないと確定している場合。貢献度に応じた分配金の配分方法が透明で、透明だから例えば貢献度の高い人に低い評価、などという不公平も発生しない。

 

不公平に対する不満には、名誉で報いてお茶を濁す

 

という灰色の解決方法もとらず、あくまで金銭で解決するんだったら、そこは営利で回っている場所で営利企業の可能性もより高くなる。一見するとそうとはわからない、どんな看板下げててもさ。非営利だと透明性に欠けるばかりか成果の配分だって不透明で、成果に対する取り分が少なくても文句も言えなさげ。

 

非営利、営利とはまた別の論理や手法で回ってる組織や集団で、理由があってカネカネカネとお金に拘るうるさい人の口。営利に向いた人を非営利に回して無理やり閉じてしまうと、再分配を司りアンフェアに怒るどなたかさんが、閉じて開かない口の代わりに制裁に動くのかもね。

 

あの大作を作ったのはオレ・私という、あれオレ詐欺を見抜くには、細切れにしてしまうとわかりやすい。細切れ、たった一人になっても以前と変わりなく同じようなものや、より作り込んだものや手を抜いたものも自在に作れるなら、本人確認になる。作れないのにあれはオレ・私と名乗り出た人を、間違って大作の制作や製作に起用することもない。

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天気のいい日に、ドライブに行った時のもの。

今日もすっきりしない天気。水辺を心地よく感じる、夏らしいお日様や風が恋しくなるくらい、天候は不順。観光のトップシーズン入りしたのにさ。

結界の内側

21世紀でデジタル化が加速する現代では、ラテン語を学んだところで実用的な使い道はあんまりなさげ。ラテン語を学んだ成果が期待できる分野といえば、学究方面に限られる。

 

ところがラテン語は、フランス語やイタリア語あるいはスペイン語(だからポルトガル語含む)のベースにもなっていて、ラテン語を語源とする単語がそれらのどの言語にもふんだんに存在する。らしい。

 

語源が同じだから、フランス語とイタリア語であってもだいたい一緒。類推がきく。日本語の標準語における方言のようなもので、高級言語であるラテン語から派生して、複数の日常的に使われる言語が生まれたような関係性と似たようなものと思ってる。

 

同根だから、イタリア語しかあるいはフランス語しか話せない人でも、フランス語やイタリア語を理解することは容易で、習熟するのもそれだけ早い。

 

デジタルファーストで、話し言葉や書き言葉よりもデジタルな言葉、例えばプログラム言語が書き言葉や話し言葉の上位に来る世界でも、興味のない人は知らないだけで、ラテン語のような存在があるのかもしれないと思うとちょっと面白い。まったく実用的ではないけれど、複数の言語の相互理解に役立つ高級言語。そんな位置付け。

 

法律の体系やあるいは商取引の体系には、大雑把にいえば二つあった。旧大陸系と新大陸系と考えればわかりやすく、欧州系と英米系やあるいは米国方式。デジタル化が進んでいるのは誰がどう見てもアメリカの方で、デジタルの世界、体系では圧倒的に新大陸系に馴染んでいる。

 

GoogleAmazonAppleの端末やついでにFBと、日々新大陸系のデジタルツールやサービスに触らない日の方が珍しいくらいだから、圧倒的に馴染んでる。

 

法律や商取引の体系は、旧大陸方式に馴染んでいた歴史の方が長いけれど、欧州とアメリカと。どちらの経済規模が大きいかと考えると、新大陸。古い旧大陸のままでは経済規模にまさる新大陸に太刀打ちできないから、旧大陸系の国、EUに加盟する国は増えたけど。

 

法律や商取引の体系にはそもそも二つあって、処理方法が若干違うから、どちらの体系に従うかで時には混乱し、混乱がたまには裁判沙汰になっていた。デジタルの世界、体系でも新旧二つの体系を残したまま、デジタル以前と同じように問題が発生した場合には裁判で争って解決するのか。それともそもそも体系が異なるから逐次問題が発生するなら、新旧が融合したひとつの体系にまとまろうとするのか、どっちなんでしょ。

 

サイバーセキュリティといった場合、何をどうやって守るのか。具体的なやり方についてはまったく無知だから、イメージするのは結界。結界の内側なら安心というイメージは、そもそも結界を知らずイメージもできない人には伝わりにくい。

 

結界といえば陰陽師で、陰陽師が使うのは呪文。呪文を唱えて結界を張っているというイメージに馴染んでる。一方陰陽師と同じようなシャーマン的存在といえば、西洋の魔法使い。魔法使いは杖を持ち、杖にパワーを集めて(多分)超常現象を起こしている。

 

呪文か杖か。唱えることは誰にでもできるけれど、唱えた言葉にパワーを込められるのは修行を積んだ者のみ。杖に似たものは誰にでも作れるし持てるけれど、超常現象を起こせるような杖は、やっぱり修行を積んだものにしか与えられない。

 

修行というトレーニング期間は共通しているけれど、魔法使いには杖というツールが必要で、陰陽師に必要なのは呪文を唱えられる肉体という器。

 

杖というツールの量産の方が、やっぱり簡単そう。ではあるけれど、だからまずはアスリートの数を増やして鍛え上げられた肉体という器を増やしてきた相手に対して、杖の使い手の数が不足してたら、ツールを量産する意味がない。

 

ショートカットを用意しても、結局は耐えられなかったらショートカットの意味もなし。

 

デジタル世界の言葉、プログラム言語が上位に来る結界の内側で、話し言葉や書き言葉に頼ってパワーを発揮しようとしても、結界の内側だったらやっぱり意味がない。

なんでもプラットフォームで考えてみる

ほとんどの日本人にとって馴染みのない、ターキッシュディライトをプリンと言い換える行為には、どう表現すればわかってもらえるかと知恵を絞った先人の苦悩や苦労がしのばれる。

 

一方、誰もが知ってる木の実をイチゴと言い換えたり、原典や原著にはない何かを勝手に追加して改変する行為からは、先人への苦悩や苦労に対する配慮は大して感じられない。

 

一体どこからそんな改変が始まり、どこまでオリジナルにはなかった改変が及んでいるのか。原典や原著にあたろうにも、原典や原著にさえ改変は波及していて、一体何が真なのかももはやわかりゃしない。

 

となったら、系そのものが信頼できなくなる。

 

ガトーショコラをベースに道産品のかぼちゃときなこを使い、名称は札幌スイーツに統一し、ちゃんと札幌スイーツとわかるように旗も立てるのが、札幌スイーツのゆるい決まり事。決まり事がゆるいから、旗が立ってないとひと目見ただけではそれとはわからない。わからないほど、スイーツそのものは多種多様。

 

明文化されたゆるいルールのもとに人が集って来たら、それはすでにプラットフォーム。会社のように、ガチガチのルールで縛られた組織も言ってみればプラットフォームの一種。

 

プラットフォ―ムの中で何かを互いに競わせてみても、勝つのは胴元。ギャンブルは、たいていの場合胴元が勝つことになっている。勝たないまでも胴元が潤わないと、賭場でもあるプラットフォームは維持できない。

 

勝った胴元が広告塔となり、プラットフォームの中で表現した、あるいは取り扱った何かの普及に努め、最終的には競争に参加した者すべてに恩恵が行き渡っていたら、そこはフェアな場所。

 

一方すべての参加者に恩恵があったとはとてもいえず、競争に参加したことで逆に著しく不利益を被るようなことがあれば、そこはアンフェアな場所。ついでに不利益を被った参加者には共通項があったら、最初から不利益、損をさせる相手を狙い撃ちしてるんだから、アンフェアにもほどがある。

 

参加あるいは利用したことでかえって著しい不利益を被ったことが可視化されたら、普及は進まず胴元も潤わない。ゆるい決まり事のもとに大勢の人を集め、たくさんの人に使ってもらいたい側は、だから不正行為に目を光らせる。

 

プラットフォーム、ゆるい決まり事のもとに新しく人を集めるのは、古いプラットフォームへの参加者が増え、巨大化していくほどに難しくなる。

 

一方古いプラットフォームが巨大化していくほどに、不正行為は巧妙になり、監視する範囲も広くなって監視あるいは管理業務が負担になっていく。負担だから、人が集まらないプラットフォームからでも人手を集めようとする。

 

大き過ぎて潰せなくなると、楽しく使ってる人よりも、不機嫌に監視あるいは管理している人の方が増えていくのかも。監視あるいは管理業務を自動化あるいは省力化できない限りは。

 

最先端は針の山で、その方面の知識や知見に欠ける人には、一見しただけでは最先端とわかるようにはなっていない。例えばちょっと軽くなった、ちょっと早くなった。その少しの差がわかる人は、ほんのちょっとでひと握り。ここから確かに変わったと、系の分岐を看破できる人もきっとほんの少し。

 

信頼できる系を残したい人は、信頼できる系を作る側や守る側につく。

 

最先端から遠くなればなるほど、その他大勢との違いは明らかで、その他大勢との違いを際立たせたい人や、違いがわかる人を新たに量産したいような人は、わざわざ僻地を選ぶのかも。成功体験は、成功体験と条件が近いほど再現しやすいから。

 

大きなつづらと小さなつづら。

 

大きなつづらには金銀財宝がたっぷりで、その代わり面倒なお付き合いもたっぷり増えますと言われた時、迷わず小さなつづらを選んで面倒なお付き合いを厭うような人が、どういう種類でどういう人たちか。同類ほどよくわかってるし知っている。

残雪と青空と

ぼちぼち、あるいはすでに夏休み入りしている人もいるかもしれない三連休の初日。こんな時だから、今さら4~5月の10連休を振り返る。涼しそうねー。

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行って来たのは、大雪山の旭岳。紅葉の季節にも行ったことがある場所。GW前は、まだたっぷり雪が残っていた。

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劇的ビフォーアフター

積雪180センチとはいえ踏み固められた雪は硬く、フカフカの雪を想像していたので肩透かし。とはいえしっかりと踏み固められていたおかげで、まったくアウトドアには向いてない恰好でロープウェイから降りた後も、わりと自由に動き回れた。

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蒔き小屋?も雪に埋もれてた。

自由にとは言っても中上級者向けのスキー場だから、歩き回ったといってもほんのわずかな場所をチョロチョロしただけ。紅葉シーズンのように、あっちもこっちもというわけにはいかず。

 

また、神様だってこんな場所だったら遊びたくなるよねという、カムイミンタラ、神様の遊ぶ庭を実感するような光景が広がっているので、ズカズカと踏み荒らすのもなんだかな。。という殊勝な気持ちも湧いてくる。そもそも、大自然に神意を感じるアニミズムにより馴染んでる。

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ひろびろー。

紅葉の季節もきれいだったけど、この日は雲一つない青空で、そりゃもう神々しいほどにきれいだった。いちばんきれいな僕・私を見て!覚えてて!と言わんばかりにきれいで、雄大な景色もきれいな景色も北海道では幾つも見たけれど、一番美しい景色といえば、迷わずこの景色を選ぶ。

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雪は白く、空は青く、どこまでいっても広々とした空間は、ただそこに居るだけで心地よかった。山登りでもやってる人なら、もっと素晴らしい景色や場所を知ってるのかもしれないけどさ。日常と地続きで大した苦労もせずに、日常とはまったくの別天地を味わえたから、天を司るこの日の神様は、たいそう気前がよかったのかも。

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中上級者向けのスキー場だけあって、ゲレンデにつきもののコースさえない場所。運が悪ければコースアウトして、崖からまっさかまになりそうでも颯爽と、スキーヤーあるいはスノーボーダーが滑っていく。

 

超初心者、お子様がキャッキャッと遊ぶスペースもあり、お子様が安心して遊べるのも結局は中上級者向けの場所で、きっちり区切られてるから。子供をちゃんと子供扱いできないのは結局は未熟な大人で、未熟な大人の都合で相手を大人扱いして背伸びを強いたり子供扱いして強権的に振る舞う。

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 それはともかく。颯爽とただ滑ることを楽しむ中上級者のスキーヤーあるいはスノーボーダーのカッコいい姿を間近に見たお子様から、そのうちまた中上級者が生まれてくるに違いない。

 

神様だって、こんな場所なら遊びたくなるこの辺りは、幸いなことに国立公園で開発が制限されている。一度荒らされた自然は元に戻すまで時間がかかるか、あるいは永遠に失われたまま。季節によって、社交の場を都市から自然豊かな場所へと使い分けるだけの人たちは、興味を失った場所はもう一顧だにしない。

 

撤去するにも費用がかかり、撤去されるまで何かが野ざらしになるなら、最初から撤去しづらいものは作らせないに限る。

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旭岳のすぐ近く、天人峡にも足を伸ばし、復旧したという羽衣の滝への遊歩道にも行ってみたけれど、雪が残る季節柄かそれともなのか、行った時はまだ不通だった。柱状節理が見事で、景観美あるいは渓谷美を堪能できる場所なんだけど、一ヶ所を除いてなぜか時間は止まったまま。なぜなんすかね???

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10連休と、お休みがたっぷりあったせいか、やたらと大きなスーツケースで旅行している人を見掛けた。北海道はでっかいどうで広いから、一ヶ所に絞り切れない、無理!と思った人が、興味の赴くままに何箇所にも足を運んでいたに違いない。

 

すでに気に入った場所を見つけている人は、同じ場所でゆっくり過ごしたくなり、あれもこれももの珍しい人は、何箇所にも足を運ぶ。お気に入りの場所が国際観光地化して予約が取りにくくなると、毎回同じ場所でゆっくりとはいかなくなるんだけどさ。

 

長期休暇が特別なものではなくなると、暮らすように旅するスタイルの人もそれだけ増えて、観光地にしかないようなもの以外にも需要が出て、土地を潤すはずなんだけど。ただぼっーと過ごしたいと思ったわりには、やっぱりあちこち動き回っていて、きれいになった場所や朽ちていくばかりの場所も見た。

 

また別の季節、夏のお花畑も見たいとは思うものの、観光のトップシーズンだけに難しい。何度繰り返しても言い足りないほど、それはそれはきれいだったなぁ。

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