クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

甘いか甘くないか

ふだんよく作るくだもののコンポートには、大さじ2杯程度の砂糖しか使ってない。一方黒豆に使う砂糖は、どっさり何百グラムという単位で砂糖を使う。

 

保存性を高めるためプラス、そもそも糖分をほとんど持たないものを甘くしようとすると、それだけ砂糖を使わないと甘くならないということかも。

 

鷹になろうとするトンビは、強制されずとも知識や知恵の吸収に貪欲。

 

どう頑張っても鷹になろうとするトンビほどのハングリーさは持てない、銀のスプーンを握りしめたサラブレッド候補は、マナーには小うるさいマナーの伝道師に向いている。

 

貪欲に何でも吸収しようとする器は、吸収するほどに器も大きくなり、そもそも「何でも」吸収する気はさらさらなく、吸収もできない器は、ほどほどにしか大きくなれない。

 

ある人にとっての合理的な選択は別の誰かにとっては不合理で、合理と不合理のあいだのごく狭い道でも行こうとするのが、視野の広い人。視野の広い人にしか、合理と不合理のあいだの狭い道なんて、そもそも見つけられないからね。そして、合理と不合理のあいだの狭い道は、通りやすく破壊するのが視野狭窄者。

 

気に食わないものは次々と壊してしまえるのは、欲しいものは常に与えられてきたからで、言ってみれば堪え性がない。逆に、欲しいものが常に手に入るとは限らなかった人は、どっちかっていうと我慢強い。

 

満たされることが少なかったから、自らを満たす、満足させる術を心得てきた人と。満たされていたから自らを満たす、満足させる術はついに身に付かなかった人と。

 

組織や集団に属しやすいのは、どちらか。深く考えるまでもない。

 

組織や集団には属したい。ただし、組織や集団の歯車として機能するには自我が強過ぎるから、リーダーにしかなれません。各種ハラスメントや乱高下する気分にも辛抱強く付き合ってくれる、それでいてよく働く部下をつけてくれたら僕・私はリーダーとして働きます。と、ドン引きするような条件をつけてくる求職者がもしいたら、返す言葉はおとといきやがれしかない。

 

最大限オブラートに包んだところで、ではそのチームをまずはあなた自ら見つけて来てから。というお守り付きコネ入社なら、面倒ごとはすべてチームに押し付けて、組織や集団は知らん顔してられるかも。

 

年の瀬が押しつまるほどに、降る雪も激しくなってきた。

 

クリスマスとは一転し、いかにも雪国らしい景色。

こまめに記録を残すとショートムービーとなる

去年のクリスマスは、鶏に詰め物をしたものがメインだった。

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去年のクリスマスから。

記録に残しているおかげで、去年は何を作ってたのか。すぐに思い出せて便利。ついでに、鶏の詰め物の制作過程も記録に残していたおかげで、去年のクリスマスのある瞬間が、勝手にテーマ曲もついてショートムービー風に記録されていた。

 

個人でやったこと、なんにもなし。ただいつものように写真を撮ってストレージに放り込んでいただけ。

 

最近人気の料理動画。その制作過程を垣間見たようで、面白かった。専用の撮影機材があるスタジオに、呼んだり呼ばれたりしなくても、この方法なら遠隔地の人ともやり取り出来る。最後に編集してブラッシュアップし、相応のクオリティーにしてから公開すればいいだけ。

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これはちょっと前。雪、少ないねー。

この手法が浸透すると、スタジオに招いて優遇するのはまずは現場スタッフと仲よくやれる人。あるいは現場スタッフに付け届けを欠かさず、どうぞこれからもよしなにと大人の対応ができる人。ということもなくなりそうで、より民主的。

 

その手のより好みが、本当に行われてるのかどうかは知らんけどさ。なんでこの人は、ずっーと出ずっぱりなんすかね???と思う人が居るのは確か。

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海老は焼くと、びっくりするほど身が縮む。悲しい。。

年越しおよび新年向けのおせちという名のストック食材は、一体いつから作り始めるべきか。割と悩ましい。

 

できるだけ新鮮な食材を使いたいとは思うものの、そろそろ新鮮な食材そのものが入荷しなくなり、冷凍ものや解凍ものが出回り始める頃。早くから作り始め、時期が来るまで冷凍庫に放り込み、解凍して食すのとどっちがいいのか。悩むところ。

 

食材が新鮮かつお手頃価格のうちに入手して作り置きし、時期が来るまで冷凍庫に放り込むのなら、大量受注に大量購入でよりお手頃価格を実現した出来合いのものに手が出そうになるのは、こんな時。

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雪が少ないせいで、雪だるまを見かけることも少ない2018年。

労力を余分に使い、より割高な方を選ぶのは不合理だけど、合理的に労力もコストもカットした先にある、余った時間を合理的に使う理由がなかったら不合理でも構わない。

 

さらに言えば、余った時間を持て余し、本来使わなくてもいいはずのエネルギーを動員してまで余った時間を埋めるくらいなら、本来の“年越し”“新年”の準備に時間を使う方がより理屈には叶ってる。

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何かがテッテッテーと歩いた後がカワイイ、凍った池の上に積もる雪。

と、黒豆が炊き上がるまでの暇な時間を使って、自分のために書いている。

 

例年に比べると記録的に雪が少ない今年は、出掛けやすくて買い物もしやすいので助かってる。暖かいわけでは決してなく、雪が降る前の方が空気はより冷たく感じる。

名声とか名門とか

クリスマスリース松ぼっくりを、南天の赤い実に変えるとお正月仕様。

 

クリスマスに仕事納めでお正月に人手不足とくれば、重宝されるのは早変わりの術。すっかり取り換えるなら、松の内も明けて節分やバレンタインが視野に入ってからでもいいじゃない。という、態度や雰囲気がすみずみまで行き渡ると、季節感は薄れていく。

 

世界征服を“せかいせーふく“と表記すると、幼稚園児が書いた七夕の短冊っぽい。戦隊ものや何かの見過ぎかもしれないけれど、戦隊ものその他に感化されて世界征服を願う幼児なら、世界征服、難し過ぎと挫折も早いから、そう心配することもない。

 

大人になっても世界征服の夢を捨てない。あるいは、大人になってから世界征服の夢にかぶれた。そういう人には要注意。何しろ大人だから。大人だから、彼らが世界征服の手下として目を付けるのは、子供。子供に何を吹き込むのかわかりゃしないから、おっかない。

 

敬天愛人あるいは古臭いところでは質実剛健

 

高校野球の学校紹介ではもれなく校訓も紹介され、校訓は校訓らしく、たいてい型にはまっているのが面白い。広告のコピーのように、ひと目を惹くことを目的にしないと型にはまったものになるものか。

 

スポーツ名門校に、学業優秀な名門校。名門校にも色々あって、彼ら名門校には名門校らしい校訓も漏れなくついてくる。もちろん立派な校訓を持つから名門校であるはずはなく、彼ら名門校を名門校たらしめているのは、一にも二にも卒業生。あるいは在校生。さすがと思われるような人材を次々に輩出するから、名門校は名門校と呼ばれるもの。

 

立派な校訓、立派な理念を掲げているから名門なわけじゃない。

 

長く続く名門校には流行りすたりもあって、黄金期や逆にいまひとつパッとしないという年代もあり、そのクオリティーは常に一定ではないけれど、それでも続々と有為な人材を輩出し続けるのが名門校。常に一定のクオリティーで、たいへん有為な人材を輩出し続けるのが超名門校。

 

企業も学校に似てる。常に一定のクオリティーで有為な人材を輩出し続けるから、名門企業と呼ばれ、常に一定のクオリティーでたいへん有為な人材を輩出し続けると、一流企業と呼ばれるもの。

 

名門企業の序列に変化があれば、名門のはずなのにどうしたの???と思う人材の輩出が続き、取引先その他で評判を落としているからかもね。

 

ある分野でエキスパートと呼ばれるような人が、長らく在籍した業界や分野について、遺書とも思える詳細な本を書くことがある。そんな時は、今後はもう彼らのようなエキスパートはそこからは生まれないという、警告も兼ねていると勝手に思っている。

 

本当にその業界の生え抜きなら、当然知ってるはずのあんなことやこんなこと。

 

その種の知識を必要としない人材が、以後は大量に輩出されるかもという危機感が、彼らエキスパートを動かし必要とする人には伝わるように書き残す。

 

せっかく書き残された遺書を大勢の目につかないようにするのは、知識の独占を兼ねつつ、業界の歴史を書き換える側に都合よく書き換えるためかもね。

 

トンビから鷹が産まれるのが楽しかった人は、銀のスプーンを握って生まれてきた人をサラブレッドとして鍛え上げることには興味も関心もわかず、いつまでたってもトンビから鷹が生まれないことに業を煮やした人は、教育そのものにも興味を失くす。こともあるかもね。

 

いったん獲得した名門の名を持つ学校や企業には、ほっておいても優秀な人材が集まってくる。そのありようは、もっとも原始的なプラットフォームで、名声の使いどころをよくわかってる。

 

巨大プラットフォーム企業がなぜアメリカ生まれなのかと考えた時、そもそも名声に支えられた大学ビジネスというプラットフォームが身近だったから。というのは、個人的に納得しやすい。

ご馳走攻めという拷問

御馳走っぽいものを3日続けて食べるともう、胃腸の調子が悪くなる。

 

一週間または10日間連続あるいはもっと長期で、フレンチのフルコースや中華のコースといった豪華な食事をとり続けることは、きっと拷問の一種になる。

 

朝も昼も手抜きなしにきっちり定食を食べ、運動は禁止。その上で夜はフルコースという食生活を、免疫のない人は一体どれくらいの期間続けられるものか。ご飯が美味しいのは、お腹が空くからさ。

 

運動禁止でお腹も空かない状態で美食を続けると、お腹が空く常人とは別のものを美味しく感じるようになるもの。度を越えて中庸を失うことは、程度に達せず中庸を失うことと同じくよくないというのも、よくわかる。

 

ものすごくお金持ちの人ともっとも接点が多いのは、きっとお金チョーダイと寄ってくる人。ダイレクトにそう言わずとも、なんらかの出資を頼まれがちというのはとってもありそう。お金を出す価値が、あるのかないのか。度を越えてしまえば、もっとも多いはずの真ん中の層にウケるものもわからなくなり、度を失えば判断基準もブレる。

 

格差が進む方にばかり目を向けていると、爆発的に増える中間層の好みにも気付きにくく、わからないものはわからないと線を引けば、度を失うこともなく判断基準もブレずに済むかもね。

 

お金さえ出せば買えるはずのものを作ってる当人たちが、お金を出しても買えないようになると、諸事おかしくなりがち。

 

作ってるものが普及品であればあるほど、なぜ自分たちには買えないんだと不満が募る。

 

ところで、電車や新幹線あるいは飛行機にロケットといった、個人所有には向かないものの製造に携わっていれば、なぜ自分たちには手に入らないんだと不満を募らせることもない。

 

例えば大聖堂。大聖堂の建造に携わってる僕・私が、大聖堂そのものの所有者になれないのはなぜなんだと言い出す人がもしいれば、イチから説明するのは面倒くさすぎて聞かなかったことにしたい。

 

えっ、君はコレを個人所有したいと言うのか???と、多くの人からドン引きされるものの個人所有を願う人は、自我が肥大し過ぎているか自他の区別がついてない可能性もあるから面倒。

 

度を越えた人は、ほどほどがわからず基準に達しない人と一緒。

 

だから、度を越えた人のほどほどを越えた荒唐無稽な話、例えば世界征服の夢に付き合えるのも、基準にさえ達しない人。

 

君はコレを個人所有したいと言うのか???あるいは君の夢は世界征服なの???と驚く感性は、ほどほどから生まれるもの。金銭でも人間関係でも満たされてる人は、荒唐無稽な話を聞いた時には、それ真面目に言ってんの???と、笑い飛ばせる。

 

荒唐無稽な話を聞いた時には、お腹抱えて大笑いする。そういうメンタルの人が多い場所では、世界征服をたくらむ人も、触るものすべてが黄金に変わるミダス王も生まれない。

スクルージ

もういくつ寝るとお正月よりも、もういくつ寝ると仕事納めの方がしっくり。すでに仕事がおさまった人も、いるかもね。例年になく雪が少ないせいで、クリスマスという気分も年の瀬という気分も薄い。

 

極論すれば、たかがお金。なのに、なんでこんなにイヤな思いをさせられるのさ。

 

と、思うような目に遭った人は、わりと高確率で反資本主義に走りやすい。それまでお金を稼ぐ苦労とは無縁であればあるほど、反資本主義が好きな人たちから組織的に狙い撃ちにされて、いいようにオモチャにされるかもしれないので要注意。

 

お金を稼ぐ苦労を知ってる人は、資本主義のいい面も知っている。

 

反資本主義好みの人が、お金とは縁が薄いとは限らない。資本主義が大嫌いな金満家や素封家は、相当にタチが悪い。

 

大嫌いな資本主義にやり返そうと思ったら、まずは自身がリッチマンになること。という過程を経てリッチになった人は、資本主義の弱点や脆弱性にはとびきり詳しくなって、ここぞというところでカードを切ってくるかもね。

 

お金でカタがつく問題なんて、結局はお金の問題でしかない。お金では解決できない問題の方が、いつだって業が深くてどうしようもない。

 

せっかく作ったあるいは手に入れた、貧者のためのプラットフォーム。閑古鳥が鳴くばっかりだったら、一緒に泣いてしまいそう。増えるはずの貧者をあてにして、準備よくプラットフォームを用意して待ってたのに、いつまで経っても貧者は来ず、貧者の救世主にもなれないのも泣けそう。

 

経世済民を謳って作ったかもしれない、貧者のためのプラットフォーム。貧者が来ないのなら貧者を作ってしまえは顧客の創造で、ほんのりクリエイティビティはあっても、それはもう経世済民とは別のもの。苦しめてどうする。

 

消防士が放火する。警察官が犯罪を犯す。メディアに携わる人がニュースにしたくなる事件を起こす。その種の行為と一緒で、その種の行為はマッチポンプって言うんでしょ。

 

バーゲンが始まったらとりあえずバーゲン会場を覗き、お買い得品が出てるかどうかチェックくらいはする。

 

同じようにバーゲン会場を覗きに来た人たちが、何をどのくらい買うのか。一定条件における、購買行動こそを欲してる人たちにとっては、何が売れるかは大した問題じゃない。頭と尻尾。常に何でも大量に買い込む人と、何があってもいつも何も買わない人を捨てると、平均的な人の行動もより追跡しやすくなってわかりやすくなる。

 

円高ドル安は、円は買いでドルは売り。ドルが売られる材料を身のうちに抱え込んでいたら、そりゃ円は買いでドルは売りのポジションとるわな。

世の中を明るくするもの

クリスマスなんて、カンケーないし。という態度は、内向きかそれともアジア向きか。

 

アジアに向いてるんだったらいいとこどりだけでなく、アジアの受難にも向き合うのがバランスってもの。いいとこどりに著しく偏っていたら、それは単なる商売上の都合なのねと、看破できる。

 

クリスマスが国民行事となる国あるいはエリアでは、感謝祭に始まるホリデーシーズンの最後を飾るのがクリスマス。一方いいとこどり、嬉しい楽しいという上澄みとしてクリスマスに向き合う国あるいはエリアでは、ホリデーシーズン、というより人恋しいシーズンの始まりがクリスマス。人恋しいシーズンの最後を飾るのはホワイトデーで、長丁場だね。

 

長丁場だから、より人恋しくなるものかもね。かもかも。

 

シュトーレンにパネトーネ、あるいはクリスマスプディング。クリスマス向けの食べ物にはお酒漬けにして保存性を高めたドライフルーツが使われがちで、発想の根っこはおせちに通じるものがある。

 

こなたに表層として現れる文化は著しく異なるけれど、根っことなる発想はだいたい一緒の異文化。かなたには、表層として現れる文化はよく似ているけれど、根っことなる発想は著しく異なる異文化があったら、どっちを選びますかね。

 

根っこは一緒の方が、相互理解もきっと進みやすい。

 

浮かれ騒ぎやすいクリスマスシーズンに、お気の毒な災難が起こればお気の毒と思うのが自然な感情。ごく自然にお気の毒と思う感情を不自然に封印するのは、顔も知らない遠くの見知らぬ人間より、顔の見えるすぐ近くの人の可哀そうにまずは同情を寄せるものじゃないのか?

 

と、難癖つけにくる人が、次から次へと現れそうでイヤだから。

 

だから、本来はもっと同情を寄せられていいはずの人たちから同情を奪っているのは、勝手に可哀そうな人の代理人となる人たち。代理人をかって出て、寄せられた同情、時にはお金という現物支給ありを手数料として過分に中抜きし、旨味をちゅうちゅう吸い上げながら、代理人となる対象(おおむね弱者)を次々に変え続ける人や組織。

 

可哀そうで世の中を動かしてついでにちょろまかす人が増えると、本来救えるはずの人も救えなくなるから悪手なのかもね。はなから救う気なんてない人なら、悪手を選ぶ。

 

必要悪を嘯く小悪党や小悪魔は、絶対悪の前には手も足も出ない。

 

絶対悪に対峙するには絶対善こそが有効で、最後まで絶対悪とガチンコで勝負できるのは絶対善だけ。そして結局は清く正しく美しい絶対善こそが、世の中を明るくする現象。

 

何かうまい例えはないかと考えながら、クリスマスディナーっぽいものを食べるクリスマスイブ。ありふれたメニューも、食材を豪華にするとご馳走っぽくなるメソッドを採用。仕込みは済んでるから、気楽なものさ。

イメージ喚起

ご馳走を作るときに大事なのは、まずは作りたいと思うご馳走があること。ご馳走とはこういうものという具体的なイメージがなかったら、ご馳走を作ろうという気にもなれんわな。

 

ついでに自分にとってのご馳走が、ありふれたご馳走とはちょっと違うものだったら、せっかくご馳走を作って振る舞っても、ご馳走と気付いてもらえないという悲劇もあり。労力に見合った評価が得られずストレスとなるなら、まずはありふれたご馳走とは何か?から学ぶとストレスも減るに違いない。

 

ご馳走を作った自分も満足。ご馳走を振る舞われた誰かも満足。与えた方も、与えられた方もニコニコ満足してる姿は傍目から見ると微笑ましく、微笑ましいから世間も満足。ご馳走を振る舞う気は満々なのに、食べてくれる人がみつからない場合は、ありふれたご馳走とはちょっと違うものと思ってまず間違いなし。

 

これとこれを組み合わせると、きっと美味しいはずという予想。大当たりするだけで満足してニコニコしてる人は、ただひたすら趣味を突き詰めてるだけで、商売っ気なんてハナから考えちゃいない。

 

目は口ほどにものを言う。

 

感情表出が抑えめで控えめ、無口な人でも目は雄弁に感情を語ってくれる。サングラスで表情を隠すのは、感情を気取られないため。生き生き、あるいは死んだようなと目を見れば本当はどう思っているのか、真意もバレやすい。

 

褒めたくないのに褒めねばならず、けなしたくないのにけなすしかないとなれば、心は死んでいく。面従腹背を強いられ続けると、まともな人ほど壊れるのは早く、壊れやすいものはとっとと壊すに限ると破壊行為に勤しむ人は、壊れてカラッポになった器こそを欲してる人。

 

壊れてカラッポになった器は、機械的に命令に従うヒト型ロボットにもってこいで、ヒト型ロボットを必要とする人なんて、表に出てこれない人や表沙汰にできないことをやってる人に決まってる。

 

ありふれたご馳走とはちょっと違うものを、無理にでも食べてくれる人。あるいはありふれたご馳走とはちょっと違うもの愛好家のフォロワ―は、自然増には期待薄。だから顧客の創造よろしく欲しいものは何でも自分たちで作るDIYな人たちだったら、自分で作る。

 

スクラップアンドビルドとはよく言ったもの。壊して新しい価値観を植え付けたヒト型ロボットの方が、ひとりの人間を一人前に育て上げるより生育期間は短くて済む。だから壊す方が手間も時間もかかるものは後回しで、ヒト型ロボットになりたくない人にとっては、後回しにされるのもスルーされるのもめでたいこと。

 

昭和の終わり。昭和が終わっても予備校という名の塾の授業は休講にもならず、いつも通りでガッカリした。

 

ガッカリする生徒たちに向け、これから君たちは古い因習とは無縁の世界で生きると力説してた予備校の先生は、長い旅を終えようとしてる人のお言葉あるいは御姿を見るために詰めかけた人の群れに何を思うのか。あるいは古い因習を疎んだその人は、古い因習とはきっぱり縁が切れたのか。今だからこそ聞いてみたいやね。

 

お休みなさーい。