クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

ご馳走攻めという拷問

御馳走っぽいものを3日続けて食べるともう、胃腸の調子が悪くなる。

 

一週間または10日間連続あるいはもっと長期で、フレンチのフルコースや中華のコースといった豪華な食事をとり続けることは、きっと拷問の一種になる。

 

朝も昼も手抜きなしにきっちり定食を食べ、運動は禁止。その上で夜はフルコースという食生活を、免疫のない人は一体どれくらいの期間続けられるものか。ご飯が美味しいのは、お腹が空くからさ。

 

運動禁止でお腹も空かない状態で美食を続けると、お腹が空く常人とは別のものを美味しく感じるようになるもの。度を越えて中庸を失うことは、程度に達せず中庸を失うことと同じくよくないというのも、よくわかる。

 

ものすごくお金持ちの人ともっとも接点が多いのは、きっとお金チョーダイと寄ってくる人。ダイレクトにそう言わずとも、なんらかの出資を頼まれがちというのはとってもありそう。お金を出す価値が、あるのかないのか。度を越えてしまえば、もっとも多いはずの真ん中の層にウケるものもわからなくなり、度を失えば判断基準もブレる。

 

格差が進む方にばかり目を向けていると、爆発的に増える中間層の好みにも気付きにくく、わからないものはわからないと線を引けば、度を失うこともなく判断基準もブレずに済むかもね。

 

お金さえ出せば買えるはずのものを作ってる当人たちが、お金を出しても買えないようになると、諸事おかしくなりがち。

 

作ってるものが普及品であればあるほど、なぜ自分たちには買えないんだと不満が募る。

 

ところで、電車や新幹線あるいは飛行機にロケットといった、個人所有には向かないものの製造に携わっていれば、なぜ自分たちには手に入らないんだと不満を募らせることもない。

 

例えば大聖堂。大聖堂の建造に携わってる僕・私が、大聖堂そのものの所有者になれないのはなぜなんだと言い出す人がもしいれば、イチから説明するのは面倒くさすぎて聞かなかったことにしたい。

 

えっ、君はコレを個人所有したいと言うのか???と、多くの人からドン引きされるものの個人所有を願う人は、自我が肥大し過ぎているか自他の区別がついてない可能性もあるから面倒。

 

度を越えた人は、ほどほどがわからず基準に達しない人と一緒。

 

だから、度を越えた人のほどほどを越えた荒唐無稽な話、例えば世界征服の夢に付き合えるのも、基準にさえ達しない人。

 

君はコレを個人所有したいと言うのか???あるいは君の夢は世界征服なの???と驚く感性は、ほどほどから生まれるもの。金銭でも人間関係でも満たされてる人は、荒唐無稽な話を聞いた時には、それ真面目に言ってんの???と、笑い飛ばせる。

 

荒唐無稽な話を聞いた時には、お腹抱えて大笑いする。そういうメンタルの人が多い場所では、世界征服をたくらむ人も、触るものすべてが黄金に変わるミダス王も生まれない。