クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

世の中を明るくするもの

クリスマスなんて、カンケーないし。という態度は、内向きかそれともアジア向きか。

 

アジアに向いてるんだったらいいとこどりだけでなく、アジアの受難にも向き合うのがバランスってもの。いいとこどりに著しく偏っていたら、それは単なる商売上の都合なのねと、看破できる。

 

クリスマスが国民行事となる国あるいはエリアでは、感謝祭に始まるホリデーシーズンの最後を飾るのがクリスマス。一方いいとこどり、嬉しい楽しいという上澄みとしてクリスマスに向き合う国あるいはエリアでは、ホリデーシーズン、というより人恋しいシーズンの始まりがクリスマス。人恋しいシーズンの最後を飾るのはホワイトデーで、長丁場だね。

 

長丁場だから、より人恋しくなるものかもね。かもかも。

 

シュトーレンにパネトーネ、あるいはクリスマスプディング。クリスマス向けの食べ物にはお酒漬けにして保存性を高めたドライフルーツが使われがちで、発想の根っこはおせちに通じるものがある。

 

こなたに表層として現れる文化は著しく異なるけれど、根っことなる発想はだいたい一緒の異文化。かなたには、表層として現れる文化はよく似ているけれど、根っことなる発想は著しく異なる異文化があったら、どっちを選びますかね。

 

根っこは一緒の方が、相互理解もきっと進みやすい。

 

浮かれ騒ぎやすいクリスマスシーズンに、お気の毒な災難が起こればお気の毒と思うのが自然な感情。ごく自然にお気の毒と思う感情を不自然に封印するのは、顔も知らない遠くの見知らぬ人間より、顔の見えるすぐ近くの人の可哀そうにまずは同情を寄せるものじゃないのか?

 

と、難癖つけにくる人が、次から次へと現れそうでイヤだから。

 

だから、本来はもっと同情を寄せられていいはずの人たちから同情を奪っているのは、勝手に可哀そうな人の代理人となる人たち。代理人をかって出て、寄せられた同情、時にはお金という現物支給ありを手数料として過分に中抜きし、旨味をちゅうちゅう吸い上げながら、代理人となる対象(おおむね弱者)を次々に変え続ける人や組織。

 

可哀そうで世の中を動かしてついでにちょろまかす人が増えると、本来救えるはずの人も救えなくなるから悪手なのかもね。はなから救う気なんてない人なら、悪手を選ぶ。

 

必要悪を嘯く小悪党や小悪魔は、絶対悪の前には手も足も出ない。

 

絶対悪に対峙するには絶対善こそが有効で、最後まで絶対悪とガチンコで勝負できるのは絶対善だけ。そして結局は清く正しく美しい絶対善こそが、世の中を明るくする現象。

 

何かうまい例えはないかと考えながら、クリスマスディナーっぽいものを食べるクリスマスイブ。ありふれたメニューも、食材を豪華にするとご馳走っぽくなるメソッドを採用。仕込みは済んでるから、気楽なものさ。