クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

民族大移動シーズン

いくらバーゲンでお買い得であっても、そもそも欲しいものがそこになければ食指も動かない。足りないものが多い人ほどバーゲンとも相性よしで、余暇の過ごし方に買い物がくるあるいは買い物が旅の目的になるのは、足りないものが多いから。

 

捨てるものの方が多くてとりあえず満たされてる人は、余暇の過ごし方も旅の目的も足りないものが多い人とは違ってくる。

 

日本のお盆と同じように、クリスマスもまた民族大移動のシーズン。民族大移動のシーズンで、皆がプレゼント抱えて飛行機待ちするから、プレゼント売場や飛行機待ちする人が詰めかける場所で働くのは、民族大移動とは無縁の人になりがち。

 

クリスマスシーズンにはクリスマスとは無関係な人が。お正月にはお正月とは無関係な人が。旧正月には旧正月とは無関係な人が居ると、休暇などの利害調整もしやすくてお互いさまになりやすい。

 

大都会は、すべての大陸出身者が集まる場所。

 

24時間365日と、いっときも一日も休まず稼働し続けるシステムを動かそうと思ったら、人を集めやすいのはやっぱり大都会。出身地が多様で、システムのある土地の伝統に縛られることもなかったら、伝統は伝統、業務は業務で休むことなく日常業務を続けられて、支障も出ない。

 

24時間365日稼働させないといけないシステムなのに、出身地やバックグラウンドに多様性なく伝統に縛られ過ぎると、伝統行事のさなかに人を集めるのに苦労する。

 

人を集めるのに苦労するから、営業そのものを取りやめましょうで理解が得られるのは余裕のあるうち。地域に同業が居て最後の砦というわけでもなく、無理に稼働させた方が経費もかかると合理的な判断ができる間だけ。

 

合理的な判断ができる段階も超え、体面のためだけに無理を続けると、無理がたたって体面そのものが丸潰れになって、そもそも何のための無理だったのか。説明のつかないことになる。

 

得する方を選べというのは、合理的な判断ができる方を選べば結局損もしないということかもね。都会になるほど選択肢が増えるもの。大都会になると選択肢も無数になるなかで、いちいち理屈つけて選ぶことに疲れたら、もっとも頼りになるのは合理的な判断。

 

最も安い。あるいは最もお得。合理的な理屈が通じる場所でこそ、合理的に考えて設計した、何かのプランも生きるもの。

 

やせ我慢してでも、最後まで何かの理念や理屈にこだわる非合理的な人は、理屈や理念にこそこだわることで報われる側に居る人かも知れず、その種の人はその種の人できっとマーケットがあって、グルグル同じような輪の中を移動してるのかもね。かもかも。

 

今日は冬至。クリスマスが近いとは思えないほど、特に寒くもない。例年に比べて雪が少ないから、嬉しがって撮りたくなるような被写体も少なくて寂しいかぎりさ。

掃除しやすいところからキレイになる

大掃除のシーズン。寒くて水を使うのもイヤな季節で、気温が低いから汚れも決して落ちやすいとは言えないこの季節に、なぜ大掃除なのかといえば年末だから。

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年を改めるにあたり、今年の汚れは今年のうちにという気分の問題もあれば、年末で休みとなり、本格的な掃除に取り組みやすいという理由もある。とはいうものの。年末年始は旅行中という過ごし方が増えれば、年末行事とは言えなくなるかもね。

 

畳を上げて庭に出し、(晴れていれば)日光消毒しつつ一年分の埃をはらう。襖や障子は張り替えてキレイにする。思えば伝統的日本家屋は掃除しやすい造りになっていたけれど、その代わり台所やお風呂といった水回りは、とびきり掃除しにくかった。

 

毎日使う場所だからどうしたって雑然とし、特に台所は、大掃除中でもお腹が空くとなればゆっくり掃除もできない。

 

掃除しやすいところはその気になって本気出せば、例えば畳の埃を払ったり襖や障子を張り替えるようにすっかりキレイにできるから、気楽なもの。畳の場合は、畳そのものを変えればもっとキレイになる。

 

窓ガラスが日本の日常に入り込んできたのは、近代になってから。

 

窓ガラスのおかげで室内に日光を取り込むことが可能になり、それまで一般的だった障子ごしの薄暗い室内からは、解放されたんだってさ。明るい方をめざすのは、そっちが近代でより明るい方だから。一見明るく見えても実は時代に逆行する方だったら、いつか光は閉ざされ昔みたいに、薄暗い障子越しの明かりに頼るようになるかもね。

 

室内を革命的に明るくしてくれた窓ガラスは、いつでもピカピカを保とうとするとそれなりに労力を必要とする。レールには埃や汚れがたまりやすくて、キレイにしにくいから後回しになりがち。

 

成果が目に見えてわかりやすい場所から手を付けると、部屋全体あるいは家全体がキレイになったと錯覚もしやすくて、成果主義に慣れた人はそっちを選ぶ。

 

掃除機でもキレイにしにくい部屋の隅や、ふだんは使わない場所。あるいは休む間もなく使う場所だから、日々貯まっていく汚れにはつい目を瞑りがちな場所は、キレイにしにくいから後回し。

 

ツールは偉大で、後回しにしがちで汚れが落ちにくい場所もすっかりきれいにしてくれるツールがもしあれば、商品としては比較的新顔でも古参のような顔して、量販店の目立つ場所に置かれるようになる。

 

プロユースの本当にお役立ちな商品が、いつでもどこでも入手可能になると、雰囲気でしか選べない消費者を相手にした半端な商品はいらなくなる。半端な商品を100生かすために、本当にお役立ちなひとつの商品を葬り去るのが腐った民主主義で、ケガレの吹き溜まり。

 

掃除するそばから汚れていき、決してキレイにならないような場所はきれいさっぱり壊して作り直すのは、式年遷宮の精神を極端に矮小化して焼き直した、とってもスケールの小さなお話かもね。かもかも。

ご馳走様

雪の上を歩くときは知らずに踏ん張ってるせいか、翌日以降に思わぬ場所が痛む。歩くだけでふだんは使わない筋肉もストレッチできるとなれば、家の中で工夫凝らしてストレッチするよりも、歩いた方が早い。

 

しっかり着込んで寒気の中を歩き回ると、頭寒足熱っぽいせいか気分もいい。暑さはどうにもならないけど、寒さは着込めば何とかなる。昔から、寒気あるいは冷気の中を歩くのは好きだった。

 

ご馳走は、東奔西走して食材をかき集めておもてなしすること。今日はクリスマス用、明日はお正月用、明後日はクリスマスとお正月の間のインターバル用と、冬眠前のリスやクマみたいに食材をかき集め中。

 

これぞと思う商品を品定めしたあとは、まとめて発注。あとは寝て待つだけ方式にすれば効率がいいけれど、そもそも趣味だから効率は求めてないんだな。非効率な方に軸足を置いてる人は、だいたい趣味でやっている。だから、より趣味性の高いものを求めがち。

 

新製品や見慣れぬ北海道初上陸品。群がるように長蛇を作る人たちは、より趣味性が高いものを求める人たちの姿。あるいは、知る人ぞ知るローカルな商品チェックに余念がない人も、やっぱり趣味性が高い。

 

趣味性が高い人たちの間ではやっぱりレア、希少なものの方が喜ばれるんだけど、レアなものを珍重するのはコア、あるいはマニアな人たちで、マニアはやっぱりマニアじゃない人たちとは別種の行動基準を持つもの。

 

マニア向けを狙わず、マニアじゃない人向けに売ろうとするとマニアは怒るけれど、市場が大きいのは明らかに効率に軸足を置いた方。目に付くから手に取る人が大半で、目に付かないところまで自ら掘り下げにいくと恐ろしく時間を取られるから、そこまでするのはマニアだけ。

 

勝手に人んちの冷蔵庫を開けて、いわゆるナショナルブランドの品しか並んでないかどうかでその人(あるいはその家庭)の生活レベルがわかるとほざく、とても失礼なシーンが昔読んだ小説にあった。

 

でもさ、他にやるべきことが多く生活において食の占める割合が低かったら、冷蔵庫の中身が普及品だらけになるのも別におかしくとも何ともない。一日あるいは日常のほとんどを過ごす別の場所、例えば会社で十分な食にありつけたら、私生活の食は必要以上に頑張り過ぎることもない。頑張り過ぎたら、逆に富栄養化が気になるところ。

 

供給が途切れないのは、レアなものを作る以上に大変なこと。供給をあるいは補給と言い換えば、より実感しやすいんだけどさ。

 

栄養が十分に取れることも大事だけど、とりあえず食の普及がひと段落したあとで期待されるのは、それが口にしてもいいものか悪いものかという味覚の発達。

 

食には興味関心の薄い、そもそもマニアじゃない人の味覚も発達すると、マニアな人との味覚の差も埋められる。だからマニアじゃない人向けに売るのは、効率以上についでに転がり込んでくる福音も大きいかもね。かもかも。

エバンジェリスト

ウチメシがほとんどという生活を送っていると、口に合わないものや見た目は何ともなくとも実は難ありみたいなものを食べた時には、すべからくお腹が教えてくれる。つまり、すぐにお腹の調子が悪くなり、あぁあれは良くないものだったんだとわかるようにできている。

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問題は、常には口にしないものを立て続けに食べた時で、お腹の調子が悪くなった原因がどこにあるのか、わかりづらい。

 

ウチメシが多いとはいえ、たまに食べるインスタント食品は、何て美味しいんでしょうと感動しながら食べてる。舌の肥えた消費者に鍛えられてきたインスタント食品は、やっぱり完成度が高い。

 

インスタント食品に限らず、入手しやすいナショナルブランドの普及品もまた完成度が高いけれど、地元ファーストでローカルブランドを贔屓にする人が増えるとどうなることやら。勢力図が変わって生産量が変われば、品質も変わってくるに違いないから。

 

衣料品や食品を買う時には、たいてい原産地もチェックしてる。衣料品の場合は意外な国が原産地になっていることも多く、以前は中国産だったのに現在はさらに別の場所へと移動していることもある。世界の縫製工場の移り変わり。みたいなものが薄っすら感じられる。

 

受注側が、大量生産しか受け付けないと発注者に注文をつけられるのは、価格交渉力をつけた結果ともいえる。価格交渉力をつけた相手とは交渉にならず、生産国を転々としてる事情でもあるのかも。

 

最初は技術力。次はマネジメント。

 

技術を伝え、経営のイロハを伝授して相手を鍛えると、手強い交渉相手になることもあるけれど、技術とマネジメントの両輪がかみ合うようになれば、利益という果実を美味しくいただけるようにもなる。出資、あるいは投資でもしていればの話。

 

利益という果実を美味しくいただきながら、次は大きく育った彼ら自身が、彼ら自身の新しい技術力と新しいマネジメント手法を伝道し始めるのを待つばかり。次を育てるのは、楽をするため。利益を吸い上げるという旨味もさることながら、新しい伝道師が誕生したら、技術あるいはマネジメントの伝道というお役目からも解放される。

 

その種の伝道は、個々にチマチマやるよりも業界全体で取り組んだ方がきっと成果も上がりやすい。成果が出るとは限らない、無駄になるかもしれない知識の伝授は、別の言い方で言えば教育。学校関係者以外であっても教育に携わってきた経験があれば、片手間ではなくやってみたいと思うものかもね。

 

お休みなさーい。

神殺し

いたね、そんな人といえばロス・ペローサイババ。どちらもお騒がせキャラとして世間を騒がし、消えていった。消えていったというよりも、騒ぎに飽きた人たちが、彼らから興味を失ったから見なくなったという方がより正しい。

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お騒がせキャラは、いずれ飽きられる。

 

飽きられることがわかっているから、世間を騒がせる奴を目立つ場所に置き続ければ、それだけ早く賞味期限も切れて世間は静かになる。

 

極端から極端に移動する人は要するに偏っていて、ほどほどでは居場所が見つからない人。思想的に極左だった人が極右に移動するのも、リベラルに転向することを思えば想像よりはきっと簡単。極端な思想はどっちもどっち。ただ大きく違うのは、神殺しを許容するかどうか。神様を殺せない人は、きっと極左として認めてもらえず、神様を愛せない人は、きっと極右としては認めてもらえない。

 

クリスマスにジングルベルと浮かれて除夜の鐘を聞いて、年が明けたら初詣に行くような人はほどほど。

 

やらぬ善よりやる偽善とはいえ、善行の数値化や見える化は、要するに偽善者がより報われるシステムだから気に食わない。

 

偽善者は善人のふりをする人で、何か不純な目的あるいは腹に一物あることを隠しながらも純粋さを装って、無邪気、邪気のない人に近付いて目的を果たす人のことだから、彼ら偽善者がより報われるシステムだと、善人が救われなくなる。

 

善人を救わず偽善者を救うシステムの先にあるのは、善行を施す人がいなくなった世界。善行がなくなれば、善行によって生かされてきたような人たちの居場所がなくなり、善行に頼らない世界をめざすしかなくなる。

 

行き場を失くした人たちの先に待つのが、偽善者が用意した善行に頼らない劣悪な職場しかなかったら、偽善者丸儲け。

 

善行に頼らない世界とは資本主義の最末端なのか、あるいは資本主義とはまた別種のギグエコノミーなのかは知らんけどさ。文化や宗教の延長線上に善行があり、その善行を否定するってことは、その人たちの居る場所は神殺しにより近いかもね。かもかも。

 

自身のコピーを必要とする人は、コピーの多寡でヒエラルキーが決まる世界の住人だと勝手に思ってる。偽善者がより報われるシステムの推進者は、偽善者に決まっていて、偽善者が増えて嬉しいのも偽善者に決まってる。

 

お休みなさーい。

今月になってから食べたものの振り返り

これまでホワイトクリスマスを疑ったことはなかったけれど、今年はどうなることか。

 

雪が降っても雨が降り、積もった雪を融かすなら、銀世界というわけにはいかず。今も路面は見えている。降りしきる雪がすべての見たくないものも覆い隠して白一色にする、白銀マジックにも今年は期待薄かも。

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地熱で作った北海道産マンゴーは、自分へのご褒美フルーツ。美味。
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  • ロールキャベツ添えトマトリゾット
  • 蒸し鶏の柚子胡椒ソース
  • お赤飯、豆腐とアサリの炒めもの
  • 小松菜と豆腐のひき肉炒め
  • 餃子
  • すき昆布と竹の子と豚肉炒め
  • 塩豚とキャベツのポトフ
  • 和風おろしハンバーグ
  • 焼き鯖寿司
  • カニとトマトクリームのパスタ
  • なすのひき肉炒め
  • カレイの煮つけ、むかごご飯
  • 牛すね肉のビール煮込み
  • 豚肉とかぶの煮物

振り返って気付く、炒め物の多さ。煮物は副菜的なものになることが多く、主菜にはあんまりしないかも。あるいはポトフや洋風の煮込みになることが多く、食卓の洋食化が止まらない。

 

ビール煮込みを始めて作ってみた。ほとんど使ったことのないすね肉は、加圧しても硬かった。。数回加圧するか、じっくりコトコト時間をかけて煮込むと、もっと肉からスープも出てより複雑な味わいとなって美味しくなったのかも。

 

という反省はありつつも、ビールを調味料に使うとコンソメその他では出せない味わいになるという発見があったので、煮込みに向いてそうな肉を見つけた時にまたやってみよう。使うビールによっても味が変わってきそうな、そういうところも面白い。

 

今回使ったのはペールエール。黒ビールだと苦すぎるかと、日和った。ビールを買い置くという習慣がなく、料理のためのビールを選ぶとレシピ発祥の地により近いものを選びたくなる。

 

日本の料理、例えば肉じゃがを外国人が作ろうとした時に、白ワインで間に合わすかどうか、みたいなこだわり。些細なことは気にせずありもので間に合わせていると、オリジナルとは似て非なるローカライズされたレシピが出来上がるんだな、きっと。

 

肉じゃがに白ワインはNGとDNAレベルで染み込んでいると、新しいものには挑戦しにくい。日本酒の原材料は米、ワインはブドウ。ブドウと白いご飯を一緒に食べられるかと考えると大抵は無理だけど、液体それも少量入りのものならすでにおかずとなる総菜には侵入してる。

 

白ワイン>赤ワイン、白ワイン≒日本酒に今は収まっている一ヶ月の消費量。パスタ料理やお菓子作りが増えると、白ワインの消費量が伸びる。

 

夕食はたいてい家で食べるものだから、たまに外食する時は、自分では絶対に作れないようなものが食べたくなる。リッチな外食を食べに行く時の気分は、美術館に行くようなもの。目で見ても楽しいものが嬉しい。


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出来立てのアツアツが嬉しいスフレは、たっぷりの日本酒入り。やり過ぎとも思えるビジュアルには笑っちゃった。ラム酒入りラムオババ(サヴァラン)か、日本酒入りスフレか。どっちもアルコールたっぷりなデザートだけど、その場でしか食べられないのはスフレ。

 

シンプルな材料だけでできるデザートほど遊ぶ余地、ローカライズの余地もたっぷりあり。

歳末

平日は閑散としがちなデパ地下も、人で賑わうのが師走の景色。黒門あるいは錦といった、商店街の代わりがデパ地下で、黒門や錦のような商店街のある街の人なら、きっと両方はしごする。

 

独身の日に、ブラックフライデー。今さら人為的にショッピング強制ディを設けなくても、日本には歳末大売り出しという、ほぼひと月に渡って繰り広げられるショッピング強制月間があるじゃない。

 

平時から財布の紐も締まりがちな節約家庭も、この月だけは財布の紐を緩めて散財する。そういうメリハリの利いた消費行動は、売る方買う方双方をめでたくするような気がするのは、気のせいか。

 

またバーゲン?と、一年中バーゲンをやっていることに気付くと、正価で買うのがばからしくなる。

 

大量発注でないと、生産者が引き受けてくれないから商品もあまりがち。という業界の事情もわかるんだけどさ。だったら、少量生産で無駄なく売り切り売り切ったらハイさようなら。というやり方をめざすところが出てくるのも、自然な流れ。

 

大量発注をかけられるところしか残らず、「次」はあるかどうかわからないから、発注に応えた生産者側も屋号も出さない。という状態が、モノがあふれてるように見えても、実は個々の作り手は減ってる状態かも。

 

趣味なら続けられるんだけど。という人が増えたら別のマーケットが大きく育ち、趣味でやってる人の方が大きく稼げて有名にもなれた。という状態は、すでにどこかで見たな。

 

生き残りがかからないと、本気で構造改革になんて乗り出すわけがない。本気で構造改革に乗り出さないと、本業にする人がいなくなり生産が不安定になるという危機感が、生産者育成につながるもの。

 

お正月に必要な、アレやコレ。縁起物というのは本来めでたい場所をグルグル循環してるものだけど、めでたい場所がお正月に限られるようになると出番も少なくなって、絶滅が危惧されるのかも。

 

おせちを買う人が増えたのは、材料を揃えるのが大変になりつつあるからで、作ってみたいものがあっても食材が手に入らないとどうにもならない。

 

ステキおせち写真やレシピを眺めながら、年末年始含むクリスマスに何を食べようかと考えるシーズン。温めたプランを実行に移したかったら、諸事前倒しで事前調達に限るとなれば、年末の混雑も少しは緩和される。

 

集中から拡散の社会実験を得意とする人なら、そこに目をつけて年末も働く人の負担を減らすプロジェクトとかやってそう。と、妄想する日曜日。