紅白のお餅(求肥)を重ねた姿を花びらに見立て、はさむ餡は白餡。一番の特徴は甘く煮た牛蒡(ごぼう)。
(添えたのはミルクティー)
お正月、というより新春に食べるお菓子”花びら餅”は、ごぼうというお節料理に欠かせない食材が使われているからよりお正月っぽくて新春らしい。
ごぼうは、食べるとごぼうだとわかる程度にはごぼうの風味が残り、それでいてしっかり甘く煮詰めているから柔らかい。白餡と甘く煮たごぼうを使った新春の和菓子として特に疑問も持たずに食べているけれど、出回り始めた時には珍しかったんじゃないだろうか。
三月の雛祭りにはひし餅にひなあられでお花見には花見団子、五月の端午の節句には柏餅で、六月には水無月。秋の十五夜には月見団子と季節や季節の行事と合わせて食べたくなるお菓子(和菓子)がいくつか思い浮かぶけれど。
行事にちなんだお菓子(和菓子)に共通するのは、特定のお店に限らずいろんなお店で買えること。
例えば半世紀。50歳年上の人(多分、記憶明瞭な人を見つけるのがすでに難しい)に、あなたの新春の景色、お正月に食べたものや過ごし方はどうでしたか?と聞き取ると、決定的に違うのはきっと食べるもの。
家庭で作ったお節は、一度では食べきれないストックが冷蔵庫に貯まる。何種類もお節を作るのは大変だけど、ごほうびは1月の半分、小正月まではきょう何作ろうと悩まなくて済むこと。冷蔵庫内のストックや買い置いた食材を、ただ使い切っていけばいいだけだから。
食べ過ぎ飲み過ぎた、胃にもお財布にも優しい七草粥に小正月の小豆粥。本来小正月は鏡開きで、鏡餅でぜんざいを作るだったと思うけど、鏡餅を飾るとは限らず、お正月は和洋取り混ぜて甘いものを食べる機会も増える。だから、甘くないけれど小豆は使う、小豆粥にここ最近は落ち着いている。
(黒豆は新しく作ったもの。まめまめしくありたい)
お節を自分で作るから冷蔵庫にはストックがあり、作らずに買って済ませるとお正月らしい食材も料理も小正月までもたずにあっという間に消費しつくす。昆布の佃煮は、お節を作る時のだし昆布の再利用。冷凍しておいて、時間ができた時に佃煮にした。
そんな風にお正月の景色は徐々に各々が暮らしやすいように変わっていく。変わっていくなかで残っていくのは、納得感のあるもの。お正月という季節感がありつつお正月以外にも使えそうなもの。
日常的にごぼうを料理に使っていれば、多少残ったところで無問題。
豚汁や寄せ鍋のような汁物に使うか、きんぴらや煮物に使うか、それともサラダに使うかかき揚げ(天ぷら)に使うか何を作ろうかと悩むだけ。
たたきごぼう(酢の物)、八幡巻き(肉料理)、煮しめ(煮物)とお節での出番が多いのも日常的な食生活での出番の多さを物語っている。使い回しがきくものは始末に困ることはないけれど、日常食でも出番の少ないものは始末に困る。
伝統的なお節の中身が変わっていくのはそのためで、現在ではNGな表現が過去はスルーされていたように、食文化も文化だけに中身が変わっていく。
そもそも使い回しがきくものの始末には困らず、多少需要予測が外れても価格や供給量で調整すればいいだけ。困るのはそもそも使い回しがきかない、出番の少ないもの。需要予測が外れて足りなければ忘れられるし、多過ぎれば新たな出番、新しい使い道を増やすことになる。
だから始末は、楽をする手段が増えるほどに難しくなって高度になり、高難度に耐えられる側のお仕事になっていく。
始末で最も簡単なのは、そもそも始末する必要などなくしてしまうこと。でもそれでは文化は残らない。
お正月にはピザにハンバーガー、あるいはカレーにギョーザやチャーハン。日常的にはそういったものをほとんど食べることのない人が”非日常”を楽しむためにお正月休みに楽しむ分にはいいんだけど。
非日常性が薄れて日常と地続きになり、単なる長期休暇ならクリスマス休暇にくっつけて、クリスマスにお節を食べる。というのも未来の姿としてはあるのかもしれない。
必要に迫られた時に取る手段に文化はない。あるいは文化は後回し。
紅白のお餅を花びらに見立て、白餡を包んで甘く煮たごぼうを添えた花びら餅も、最初はあるお店のものだったのかも。お店が消えても季節に食べるものとなれば文化は残る。
その季節さえ消えた時の文化の形を想像できた人が、文化とつながりあるいろんなものをいろんなものに託して残した、あるいは残そうとしてるんだと思った。