クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

富士は日本一の山

田子の浦にうち出でてみれば白妙のふじのたかねに雪はふりつつ

 

十人十色の10倍だけあって、百人一首は叙情でも叙景でも多彩。技巧を凝らしたものもあれば、素朴なものもあり、巧拙という点でも多彩。

 

春夏秋冬それぞれの季節に寄せて、嬉しい楽しいといったポジティブな感情だけでなく、寂しいや例えば花の盛りが過ぎたことを残念に思うようなネガティブな感情も扱ってる。

 

大別すれば歌に景色や季節が織り込まれているものと織り込まれていないものがあり、自由気ままな外出は、和歌を作るような階級では特別な機会だった時代を反映してるようにも思える。『ちはやふる』をじっくり読み込めば、そのあたりの背景にはもっと詳しく踏み込んでるかもだけど、精読してないので雰囲気でそう感じただけ。

 

外に出ないから季節も自然も景色もなく、あるのは自身の内部。ただ己の内部から生まれたと思われるような歌は、より技巧に勝ってるように思えるのもきっと気のせいじゃない。自省や内省の時間が長く、言ってみればたっぷりの練習時間があれば技術は向上する。

 

景色や風景を織り込んだ歌は、万葉の昔から四季があった日本の伝統っぽく、万葉からの連続性を感じる。

 

景色の中に身を置いて自身の感情を歌った歌が多いなか、ただシンプルに富士山に雪が降る情景を歌った歌は、景色だけという点でだからちょっと変わってる。

 

そもそもは万葉集から来た(らしい)歌だから、素朴でもちっともおかしくない。おかしくないけれど、冠雪した富士山、あるいは富士山に雪が降る景色の美しさや素晴らしさを伝えるのに、言葉はいらない。

 

絶景を前にキレイねステキねと感想を連ねるのは鑑賞者で、素晴らしさや美しさを伝える発信者は、ただ美しさや素晴らしさを伝えることに専念さえすればいい。

 

カメラもスマホもなかった時代。目の前の素晴らしい景色をどう伝えようかと考えた時に景色だけを描写して、素晴らしい景色を前にした自身の感情は封印した。そのセンス、あるいは審美眼は、カメラが普及する時代の感性を恐ろしいほどに先取りしてる。

 

今では世界的観光地になった富士山を見て、びゅーてほー・わんだほーと世界中の人が思い思いに写真を撮っているに違いないけれど、びゅーてほー・わんだほーと千や万の言葉で伝える方が難しい。

 

富士山ってホントにキレイなの?と問われたら、ただ絶景だと思う富士山の写真を見せればいい。

 

Q:キレイなの? A:ほら、キレイじゃん。

 

自身の感情は脇に置いて、ただとある季節とある場所から見える富士山の景色だけを切り取って詠んだ歌は、シチュエーションとしてはそういう感じに思えて、一見すると技巧なんて何もないようで、“美しさの見せ方”あるいは“素晴らしさの表現”としてはとっても凝っている。

 

とっても凝ったものだから、凝った表現を見慣れた人(←百人一首の選者)もわざわざ選んだのかも。

 

口惜しいや恨み言っぽいネガティブな感情を扱った歌も百首のなかには選ばれているけれど、怒りといった感情、プロテストソングは見当たらないところも日本的。

 

百人一首的なものを現代で作ろうと思ったら、和歌ではなくJポップでもできそうだと思ったけど。

 

恋愛でも恋愛以外でも。自己の感情を扱ったものは多くても、季節や風景を織り込んだものは少なくて、とある季節とある風景を織り込んだものとなるともっと少なくなるはず。

 

卒業シーズンを別にすれば、今を生きる人にも通じる表現で四季を揃えることもきっと今となっては難しく、だから百人一首Jポップあるいは音楽バージョンは作るのが難しいのかも。かもかも。

 

言葉のレトリックは、一切なし。ただ山に雪が降っている。そのさまをありのままに描写するだけで美しさや素晴らしさが曲解されることなく誰にでも伝わるのなら、そもそもの素材が美しくて素晴らしい。

 

日本一の山を表現するのに、足し算ではなく引き算、余計なものは削ぎ落とす方を選んだ。その手法もとっても日本的。

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これは春先、雪で真っ白になっている羊蹄山。別名蝦夷富士。夏に見る羊蹄山とはまた違った景色。見慣れたはずの景色も、季節が変わるだけで見る印象が変わって新鮮。