クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

ありし日の

かぼちゃのポタージュを作る時は、いつも皮まで使う。

 

色味は悪くなるけれど、煮物だったら皮ごと食べるから。勤労感謝の日に作るかぼちゃのポタージュは皮無しで。いつもなら使う部分を使わないとごちそうっぽく、雑味がないからいつもより美味しく感じた。

 

かぼちゃ、玉ねぎ、バターにブイヨンキューブ、牛乳と塩こしょう。ポタージュに使う材料はそれだけ。かぼちゃ以外の材料はすべて共通にして、かぼちゃの品種やブランドだけを変えて作れば、ブランドや品種の良し悪しがよくわかる。

 

かぼちゃの出番が最も多くなるシーズンに、一番美味しいかぼちゃを用意するなら良心的。出番が多くなるからと在庫一掃の機会にするなら良心少なめか非良心的。

 

心の中の閻魔帳はそういう機会に着々と積み重ねられ、年単位で積み重ねられた良し悪しの天秤となる。良心的な商売人だったかどうかは、やる前からわかっていることなんだろう。

 

ふた昔かそれよりもう少し前。京都の寺町二条には、”せいほう”というケーキと紅茶の店があった。

 

どのケーキも美味しかったけれど、今でももう一度食べたいと思うのはりんごやチェリーなどフルーツを使ったもの。美味しいチェリーパイが比較的色んなお店に並び出した頃でもあって、その前か後ではチェリーパイが好きな主人公が活躍するアメリカのテレビドラマが人気だった。

 

国内(=制作国)だけでなく、海外でも大人気。その種のエンタメ作品の凄さ、あるいは偉大さは案外そんなところにあって経済波及効果が抜群で、抜群の経済波及効果を使って売り出すものが決まっているとヒットするのも確実となって、ホームランは無理でも出塁は確実。ヒット作の蛇口が細いと、その種の予測も比較的簡単だったのかも。

 

”せいほう”の近くには”トラモント”というイタリアン、というよりパスタのお店があった。そっちは今でもあるはず。料理によってはかなり塩気がきつく、塩気はきついけれど美味しかった。本場のイタリアンはそんなものというよりは、平均的に美味しいイタリアンのお店が増えたら塩気のきつい味は個性となって、記憶に残りやすい味となる。

 

”せいほう”にはある時から軽井沢の先生こと、内田康夫が好きだというチョコレートケーキ(ドライフルーツ入り)が並ぶようになった。本当に内田康夫がその店やケーキが贔屓だったのかどうかはわからないけれど、お気に入りのケーキと一緒に売られていた内田康夫という名前は、ケーキを思い出すたびにセットでついてくる。

 

浅見光彦シリーズが好きだけれど、好きというだけでその内容はビタいち頭の中には入っていない。

 

多分女性人気がより高い、浅見光彦というキャラクターはある種の女性の願望を体現している。良家のおぼっちゃま≒王子様で、近親者は国家権力者。小さなコミュニティでは暴くことも正すこともできない不正や腐敗を正す存在だから、好かれて好まれる。

 

それはつまり、国家権力という強権でもないと正すことができない、不正や腐敗を不快感とともに身近に感じている女性たちの多さにもつながってる。あるいはいたんだろう。

 

見た目も家柄も性格も。いいに越したことはないけれど、見た目がいいだけでも家柄がいいだけでも性格がいいだけでもダメで浅見光彦じゃない。不正や腐敗を正す国家権力へのショートカットという機能が付いてないと、浅見光彦タイプの王子様にはなれない。

 

正すことのできない王子様≒おぼっちゃまは、世知に長けた女性にとってはカモでしかない。

 

その繰り返しが相互不信の歴史で、現実には浅見光彦のようなキャラは滅多に存在しないとわかっている。

 

絶対的な信頼を勝ち得ている人、場合によっては人々は、相互不信の歴史から不信を取り除いた人や人々で、それなり以上のことをやってきたという歴史の積み重ねは、属人。人に属すものだから、歴史を積み重ねないと代わりにはなれないし、ひょっこり代わりが現れるものでもなく、ましてや人でないもの(=組織)では代われない。

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勤労感謝の日のワンプレート。カマンベールのチーズフォンデュにタラモサラダ風ポテサラ、手作りソーセージにかぼちゃのポタージュスープを添えて。ポタージュはいつもよりきれいな黄色に仕上がった。ソーセージは手作りしたものより市販の粗挽きソーセージの方が断然美味しい。断然美味しいけれど、買えばいいものをわざわざ手作りすると、よりホリデーっぽい。