クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

繰り返し

敗戦のあとは、日本的なもののことごとくを毛嫌いするようになった。という遠いようで近い過去をよく知る人は、その知識を次の機会に生かすと思う。

 

大して代わり映えする景色でもないのに毎年カメラを向けるのは、もう習慣になっているから。今年も変わらずきれいねーと確認することで、安心してる。周辺のことごとくが変わってしまっても、ここはあんまり変わんないわという景色は、安定の象徴のようなものだから安心感もひとしお。

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よく見れば、ちょっとづつ変わってはいるんだけどさ。

 

例えば視界いっぱいに広がるお花畑を見た時。いちめんのなのはないちめんのなのはないちめんのなのはな以下略と、きれいと思った瞬間をことばに閉じ込める代わりに、スマホやカメラがあればこと足りる。

 

きれいと思った瞬間をとらえる作業は、ことばからカメラやスマホに取って代わり、取って代わったから、きれいな景色の前ではことばは添え物でキャッチコピー。

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下から見ても、きれいはきれい。

標準的なポップスが大体3~4分くらいだとしたら、3~4分間ずっと、ただ景色の美しさだけを歌い上げるのは大変で、大変だから間が持たない。間が持たないから、景色の美しさを歌い上げつつ、別れや出会いといった誰もが心当たりのある感情も一緒に歌い上げて、ようやく3~4分くらいの長さをキープできるかどうか。

 

標準的なアルバムには大体10曲前後の曲が入っている。10曲全部がただ感情を歌い上げたものになりがちで、聞いてる方としてはわりとうんざり。感情より景色を歌い上げる方がより難しく、難しいから感情を歌い上げる方に偏っているんだと思ってる。

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作ってる側の人たちは、だからことばにはできずならないものがあるということに、最初っから自覚的に違いない。

 

ただ景色の美しさ、自然の美しさだけを延々と朗々とことばにしたジャンルはすでにあるけどさ。あれをメロディーにのせて、現代人の耳にも心地よい曲に仕上げるのはどう考えても感情を歌い上げるより高度。高度だから、高度なことは高度なことが得意な人が挑むようになっている。

 

アラきれいと思ったら、俳句や短歌といったことばに閉じ込める代わりにスマホやカメラを向ける。よりきれいな景色を撮ろうとテクニックを磨くことは、ことばを磨く作業と相似形で、昔も今もやってることは結局そんなに変わってない。

 

きれいと思った瞬間を閉じ込めわがものにしようとする行為は、普遍的。

 

渾身の一枚で、きれいと思った瞬間を永遠に閉じ込めることにせっかく成功したのに、動画になったら永遠も台無し。せっかく永遠に閉じ込めた瞬間も、動画になればまた再び動き出す。

 

ふたたび動き出して流れ始め、止まらなかったら再びことばの出番で、一瞬を切り出すよりも多くのことばが必要になり、キャッチコピーより長くなる。仕事が減ったら困る人は、そうやって仕事を作っていくものだと思ってる。

 

きれいな景色には、自然と人が群がってくるから、人が群がるほどきれいな景色を見ようと思った時、邪魔になるのは人。きれいな景色だけをピュアに楽しみたい人は、だから一歩引いて、ただ景色だけを眺められる場所を探す。

 

ある時期ある場所で、局所的に集客や売り上げが伸びる特異点を探している人は、特異点を探してきれいな景色にたどり着く。

 

たどり着いた理由が全く異なる二者は対立しがち。だけどナショナルトラスト的に、ただきれいな景色だけをピュアに楽しめる領域を広げようとした時、互いにいいとこどりしてると世間的にはいいコンビと見做される。

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きれいと思った瞬間を閉じ込めわがものにしようとする行為は普遍的で、普遍的だから永遠に食いっぱぐれがない。永遠に、ツールの進化が繰り返される。