クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

青白黄色に緑

空や海。水辺の青に、山や森に林、野原の緑。雲は白く、風にゆれるタンポポや菜の花、キスゲにひまわりなどの黄色い花。


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(これは、お盆を過ぎたというのに真夏日だった日に見た夏空)

ステキな景色を種々取り揃えたなかから選んだ一枚は、青に白・緑に黄色の組み合わせ。その色の組み合わせでできた景色を好ましいと思っているからで、好ましいからそんな景色を見に遠くまで足を運ぶ。

 

黄色い花の代わりに、人によってはラベンダーの紫や芝桜のピンク。あるいは黄色や朱色に染まった紅葉や一面真っ白な雪景色や霧に覆われた景色で、要するに好ましいと思う原風景と結びついている。

 

思うのが人で、人ではないAIは思ったりしない。(←別の人が言ってた)

 

人か、人に擬した(あるいは模した)AIか否かを見分けるフックとなるのは、感情。思うかどうかなんだと、今となってはコンビニでAIが買えそうなくらい固有名詞が浸透するはるか以前にAIの本質を掴んでいた人や人たちに、用語を覚えたての側はかなうはずがない。

 

お酒を飲んでご機嫌なお年寄りがいれば、ジジババには我関せずとゲームで遊んでいたり、ジュースやお茶、好物を食べて満足なちびっこがいて、若いパパママがいて。

 

世代が異なる老若男女が同じ場所に集い、それぞれが好き勝手に飲み食いして時を過ごす。あぁ村まつりってそんな感じ。

 

同世代が多いと目に入るのは同じ世代で、”同じ”人たち。同じ属性の人たちが集っていると、まつりはまつりでも村まつりとはちょっとだーいぶ雰囲気が違う。

 

同世代が少ないと異世代に目が向いて、異なる世代であっても集いやすくなっていると、より町より村っぽくなる。

 

未来のミライ』という小さな男の子を主人公にした映画のなかで、小さな男の子は自分よりもだーいぶ大きな、けれど小さな男の子と同じく誰かの息子で宝物で大事にされた(らしい)青年からイチャモンをつけられる。というシーンがあったけれど。

 

あれは、”子供は子供が嫌い”を表したシーンなんだと思った。

 

体は大きくなっても子供は子供で、自身が一身に受けるはずだった愛情や恩恵その他。別の誰かと分け合ったり奪われたりするから、子供は子供が嫌いで、時として「あなた、お兄ちゃんorお姉ちゃんでしょ?」という事態にもなるんだと思えば納得しやすいし対策も立てやすい。

 

異なる世代とも上手にお付き合いできるのなら、そもそも異なる世代との接触が多い。大事にされたい時はあっち、リスペクトされたい時はこっちと自身の感情のおとしどころがわかっていると、いつ見ても感情の安定した大人としてふるまえるし、扱ってもらえるんだろう。


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今は跡形もないけれど、この場所にも夏まつりがあった。