ナマズのフライを食べるのは、米南部。それが嘘か本当かは知らないけれど、ガンボスープにスパイシーな肉料理と、郷土食がより豊かなイメージがあるのは南部。
緑のトマトを見ると思い出すのは、『フライド・グリーン・トマト』という古い映画。キャシー・ベイツを聞き役に、老婦人がありし日の思い出を語る。
主な登場人物は、イジーとルイスという二人の女性。ルースはイジーの兄バディの恋人で、義姉になるより前に彼は事故で亡くなり、家族になるはずだった人ルースとイジーの友情以上家族未満の関係は兄亡き後も続いてる。
舞台は、恐らく鉄道の開通によって栄えた場所で、鉄道が斜陽になるとともにさびれつつある小さな街。
小さくてさびれつつある街だから、大きな街や都市よりも住民同士の繋がりは良くも悪くも濃厚。助け合いや支え合いといった相互扶助は良い面で、秘密主義で悪事は隠微や隠匿されやすいといった悪い面を合わせ持っている。
イジーはちょっと風変わりで行動力いっぱい。ルースはたおやかで良妻賢母型、というキャラクターで南部が舞台。イジーがルースに対し、友情というにはあまりにも強い愛情を示すせいか、ある時から偏った見方をされるようになった映画だと記憶している。
古い映画、それも今ではもう主要な動画配信サービスでは見れないような映画をもう一度見てみたいと思ったのは、舞台となった場所や時代を考えた時、それまでとは違う見方ができると思ったから。
南北戦争、内戦での死者の数は、対外戦争よりも多かったんだと、これもどこかや何かで聞きかじったこと。
国が分断され、戦争が終わったあともわだかまりが残る。そんな状況で、嫌な思い出が残る土地を離れ、新しい場所で新しい何かを作ったり始めるのは、作業そのものは重労働でも精神的にはプラスだったんじゃないだろうか。それも、気の合う仲間と一緒なら。
鉄道によって栄え、今はさびれつつあるけれどきれいに手入れされた街は、だからプラスの思い出をたくさん持った人たちのよき思い出に支えられている面もあるから今でもきれいなのかも。
イジーの兄でルースの恋人である兄もきっと”支えてた側”の人で、もしもルースと兄バディが結婚して子供でも生まれていれば、支える側のメンバーは増えるはずだった。
ちょっと変わったイジーがのびやかに生きられるのも、小さな街だけに規範や規格からも遠い土地だから。
イジーがルースに示す、友情以上家族未満の愛情は、”小さな街を一緒に支えるはずだった”という土地への思い(=愛情や愛着)にも根差しているから、単なる友情よりもより強く、支え手を失った喪失も深い。
そして土地への思い、かつて、例えば両親や祖父母の時代には栄えていたけれど今はさびれつつある、愛情と一種残念に思う気持ちに対して共感を抱いたり理解できないと、偏った見方にもなるんだと思った。
家族になるはずだった人とは家族になれなかった。住み慣れた場所は少しづつ、あるいは急速に見慣れない場所へと変わりつつある。という状況で、急激な変化を嫌った街の支え手たちは、深い繋がりを持つコミュニティの悪い一面を晒す。
映画一作の重みが、動画配信サービス登場以前と以後では全然違う。
単純な理解を拒む、複雑な背景を背負って生まれてきた印象的なエピソードやシーンは、作品に相応の重みがないと現代では誤解が生まれて広がるだけ。
だから、動画配信サービスでもう一度見たいと思う反面、きっと無理だろう、配信は止めておいた方がいいだろうとも思う。
家族になるはずだった。だけどなれなかった。だから、友人以上家族未満の友情よりも強く友人よりも長く続く、兄の恋人・弟の恋人、姉の婚約者・妹の婚約者との関係がたくさん生まれてくるのは、戦後。
戦争というフィルターが剝がれた平和な時代には、この種の関係に対する理解や共感も薄れて曲解が生まれる。
誤解や曲解。義務的かつ機械的な相槌しか返さないだろう相手に、誤解され続けてきた人や人たちは口を閉ざすし閉ざしがち。だから、話を聞きたい人と話したい人との相互理解がすすむことは、まれ。
今ではミニトマトもカラフルになって、赤以外にも色とりどり。果皮は緑でも味はしっかり完熟で甘く、赤やその他色とりどりのトマトと味はちっとも変わらない。
『フライド・グリーン・トマト』の緑のトマトは未熟で酸っぱいものだったのか、どんな料理だったのか。ちょっと知りたいときに動画配信サービスは便利だけど、ちょっとの好奇心以上を届けたい人にとっては、便利は不便。