クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

白黒のなかの赤や色鮮やかなもの

過去の回想シーンはすべてモノクロで、赤いコートを着て登場するのはたったひとり。可愛らしい、幼さの残るまだ小さな女の子だけ。

 

戦時下(WWⅡ)のドイツで軍用品を製造する会社の経営者で豊かだった実業家のオスカー・シンドラーを主人公にした『シンドラーのリスト』は、実業家の立場で戦争とジェノサイドに関わる複雑な状況を描いている。俗人かつ俗物が、俗人として関わったから聖職者とはまったく異なるやり方で関与する。

 

色が失われた世界のなかで、ただ一人鮮やかな色彩を纏って登場する女の子の姿は鮮烈で、彼女がいなくなった世界はまたモノクロに戻り、喪失を際立たせる。

 

政教分離が厳密かつ厳格になると、お盆やお彼岸のような行事は語りにくくなって教えにくくなる。お盆やお彼岸といったわかりやすい行事だけでなく、先祖崇拝に由来する行事そのものが語りにくくなって伝えにくくなる。

 

そもそも地域性豊かなものだから、統一された共通のやり方があるわけでなし。“あそこではそうらしいよ”が通用してしまうだけに、先祖崇拝とは無関係なものがいつのまにか紛れ込んでいても、間違っているとは言えない状況が生まれてくることもあり得る。

 

お盆やお彼岸にお墓に参って手を合わせるとき、思い浮かべるのは面識や縁のある祖先の顔。直接知っていた、仏壇やその他の場所に飾ってある写真などから見知っている顔で、その時墓地に参っている側とまつられている側には一族という連続性や家族という一体性がある。

 

誰かや何かの喪失を悼むという感情を、発露(あるいは表出)するのにちょうどいい場所が失われると、喪失を悼むという感情そのものも行き場を失う。そして、失うものなど何もないという刹那的かつ破壊的衝動につき動かされる遠因となるのかも。

 

白黒がメインで、子供の頃から今でもずっとカワイイとは一度も思ったことがない。どっちかっていうと怖いキャラクターで読ませる『モチモチの木』という絵本は、読後感もすっきり爽快とはちょっと違う。

 

おじいさんと二人暮らしのまだ幼い男の子。彼らが住む家のそばには大きな木があり、急病に倒れたおじいさんのため、男の子が勇気を奮って暗い夜道を駆けてお医者さんを呼びに行ったとき、煌々と明るく輝いた。

 

おじいさん達は人里離れて暮らし、里で集住する人達とは生計を立てている手段が違うんだとわかるけれど、絵本だけあって説明に乏しく、乏しいから自由に解釈できる。

 

開拓や、戦中戦後の厳しい時代を生き抜いた。そういう先祖のおかげで現在がある。という状況で、過去と現在との一体性が濃厚だと先祖伝来の土地は離れにくい。

 

先祖伝来の地で、今はもういない血縁や地縁で結ばれた人との記憶鮮明なせいか、人里離れた場所でもおじいさんはヘーキで、昼間は元気な男の子は夜を恐れる。特に、大きな木がオバケに見えると言って脅える。

 

子供が夜の闇に敏感で怖れるのは当たり前かつ真っ当な反応で、本来怖ろしいはずの夜道を駆けたのは、庇護者であるおじいさんが病に倒れるという緊急事態だったから。

 

男の子が非常事態に勇気を出して暗闇の中を駆け出したとき、灯るはずのない明かりがモチモチの木に灯る。あら、スピリチュアル。

 

その土地と縁のある子供、土地の未来に繋がる幼きものの庇護者に危機が訪れたときだけ明かりが灯り、見通しがきかないはずの闇夜を照らすのは、昼間見ると何ともないその土地に根を張った木。

 

という現象は、土地と人が結ばれた先祖崇拝の形態の一種とも解釈できて、だから絵本でファンタジックに語ると、厳密かつ厳格と真っ向から相対しなくてもよくなる。

 

おじいさんが健康を取り戻すと、男の子はまた夜を怖れるようになり、夜を怖れる当たり前の子供に戻る。暗闇を怖れないのは闇に慣れて鈍感になったからで、おじいさんは怖れない。おじいさんが健在で男の子が幼いうちは、男の子が闇に鈍感になって慣れる必要などなく、闇には敏感なままでいい。

 

悲しい歌は、征服されたものが歌うもの。

 

だから、いまだ征服されざる者は悲しい歌を悲しくもないのに歌う必要などなく、ただ明るい歌を歌えばいい。モノクロの世界に色鮮やかな何かが登場すると目立ち、消えたときはその消失がまた目立つから。