クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

1が2になって、3が4になる。

肌がきれいと評判の美人女優やタレントであっても、生まれたばかりのわが子わが孫に比べれば、”うちの子のほうが可愛い”になる。

 

つきたてのお餅か剥きたてのゆで卵か。つるつるプニプニで思わず突っつきたくなって引っ張ってみたくなる。

 

赤ちゃんはそんな風に扱われがちで、無防備に突っつかれて引っ張られるとギャン泣きする。ギャン泣きする赤ちゃんにつられ、突っついて引っ張ってみた男の子の方も癇癪を起してギャン泣きし始める。

 

新たに赤ちゃんを迎えた家庭ならどこにでもありそうな出来事をベースに、そのファミリーにしか起こりそうにない出来事を描いた『未来のミライ』の主人公は、小さな男の子。

 

男の子が住むステキなお家と、徒歩で移動できるような距離にある公園までが舞台の小さな世界。

 

小さな世界で父母や祖父母の愛情を一身に受ける、唯一の存在だった小さな男の子に彼よりも小さな妹が生まれ、唯一ではなくなる。世界を分け合えと突然迫られることになった小さな男の子からすると、きっと激変。

 

父母に彼と3人だった世界が4人になる。3で保たれていたバランスが4になるわけで、しかも3が始まった時とまったく同じではなく父にも母にも変化があった。以前とは違う環境、状態で4になってスタートするわけだから時々不安定。

 

時々不安定になる妹が加わった世界で小さな男の子は、出会うはずのない人と出会って言葉を交わす。

 

例えば道に迷った時。来た道を振り返るかのように小さな男の子が生まれるに至った家族が辿ってきた道を振り返った時。3代目はジェントルマンを体現するお父さんにもやっぱりお父さんお母さんがいておじいさんおばあさんがいた。

 

小さな子どもは頭でっかちで、体格に比して大きな頭を持っているから歩く時にもちょっとヨロヨロで足元は覚束ない。

 

これからどこに行こうかと前を向いた時、小さな男の子の前に大人とも言い切れない少年少女が登場するけれど、彼らの手足は長く伸びてもう頭でっかちじゃない。

 

例えば猫は人間よりも気配に敏感で、時に何かを感じ取った猫は毛を逆立てて異変を知らせる。

 

現実にどっぷり漬かっていない小さな子ども、税金・社会保障に社交に悩むこともないとより非現実に近くなるものか。毛を逆立ててはいないけれど、小さな男の子が見た本来説明などいらないビジョンは感じるもの。

 

感じられない人が見る必要はなく、だから彼にしか見えていないかのように描かれる。

 

彼も家族なの?という人物が映り込むこともあるけれど、それは”場”に繋がったあるいは連なった過去なのかも。

 

大人には頼れない。あるいは、あてにできない親を持った子どもは早くから大人びる。小さな男の子が甘えん坊なのは、だから頼れる大人がいてあてになるしっかりした親がついている証しでもあるから、何も悪いことじゃない。

 

そして、インテリア雑誌が取り上げたくなるような、住まいがそのままインテリアのコンテンツになりそうなステキな家で、父母から十分あるいは存分に愛情を注がれる小さな男の子は、3世代にわたる勤労あるいは勤勉の結果。棚ボタなんかじゃないことも見ていればわかる。

 

小さな男の子は第4世代。やっぱりまだ小さな妹とともに、未来を生きていく。

 

三輪車や補助輪のついた自転車から、いきなり自転車に乗らなくても今どきはペダルのない自転車がある。

 

昔なら逆上がりで、今どきなら自転車。

 

”他の子と同じようにできない”ことが劣等感につながるのなら、劣等感を最小にするための仕掛けがふんだんに用意されているのは少子化だから。

 

小さな男の子の世界には、妹の他には同じような年頃の子どもはおらず、後ろ、祖先を見た時の方が数は多い。

 

そもそも仲間、同士の少ない世界で生きていくんだから仲良くね。というじいじやばぁば、ひいじいじやひいばぁばの願いもこめられた、一見すると小さく見えるけれど大きな世界のお話でもあるんだと思った。

 

本来子どものためのものに、子どものためにはならないものが紛れ込むのは少子化の時代に限らずいつものこと。少子化で数が少なくなった子どもめがけ、ためにならないものまで殺到するようになったとき、子どものためのものの守りはより手厚くなって強固になっていく。そういうことでもあるんだろう。

 

開発余地の乏しそうな、落ち着いた成熟した住宅街に、規格外で自由な間取りの家を建ててメンテナンスもできるのは、その業界と縁があるから。ただそれに尽きる。

 

十年二十年先、今見えているものよりも遠くを見た時に見えたものをめざすと、先回りしたように見えるのかも。