クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

荒野のなかの嵐

原作では確か子どももいて、確執は子世代にも及んだ二組の男女を描いた『嵐が丘』をふっるーい映画で見てみた。

 

見た映画版では、子どものエピソードはカットされていた。1847年に書かれた原作を1939年に映像化すると、こういう解釈になるのか。という意味で、面白かった。

 

主演はローレンス・オリヴィエで、名優として今でも名前だけは知っている。アラ、カッコいいと、ドアップでも思えるのは、モノクロだからか当時の濃いメイクのおかげか、それとも本当に単なる美形なのか。

 

正統派の美形がヒーロー・ヒロインを演じているのはやっぱり古典ならではで、美男美女が悲恋を演じるのも古典的。

 

家族のように育って愛情を育んだ二人が、長じるに及んで階級差がきっかけで大喧嘩になって引き裂かれ、引き裂かれるけれど惹かれ合うというストーリーが、小さな世界で繰り広げられる。

 

ヒロインのキャサリンは、ヒーローであるヒースクリフ(成り上がり系)の求愛を受け入れず、隣家のボンボンと結婚する。隣といってもだーいぶ離れてる。移動手段は馬。人口密度のひっくーい荒野広がるヨークシャーでのことで、    21世紀の現在からすると、ヨークシャーのだだっ広い土地のオーナーなんだと思うと、ため息が出ちゃう。

 

境遇だけでため息が出るような男性だから、キャサリンの夫となったエドガーの容姿が、ヒースクリフに劣っていても何の問題もない。優しくて紳士。それだけでもう十分。一緒に育ったヒースクリフが、どれほどカッコよく成長しようと、階級の差は越えられない。

 

階級差を超えられずに絶望したヒースクリフは失踪し、成り上がったあとにキャサリンの生家であるキャサリンエドガーの隣家に戻ってくる。もうびっくりするほど小さな世界。

 

ヨークシャーを出て、階級が問題にならない世界で財を築き、成り上がった者にふさわしく、その気になれば相応にブルジョワジー(新興有産階級)としてふるまうこともできるようになったにもかかわらず、キャサリンのもとに帰ってきたヒースクリフ

 

自分が何者であるか隠さなくてもいいキャサリンのそばで暮らすヒースクリフは、階級差を超えたのか超えなかったのか。

 

生活レベルを下げられず、ヒースクリフの求愛を結果的にはねのけたキャサリンは、階級差を気にしなくてもいいエドガーと結婚する。

 

階級差を超えて成り上がったヒースクリフは、「スタート地点はどうであれ、今は成功してるんだから別にいいじゃない?」という態度で自分を慕うエドガーの妹イザベラ(のちの妻)には、キャサリンほどの愛情は示さない。

 

だから、激情をぶつけ合うのはキャサリンとだけ。

 

低いレベルで承認欲求が満たされると、階級差のような高いハードルを超えようという強い欲求は生まれてこない。それでいいじゃない?と現在の自分を肯定された時、人は背伸びを止めて、何者なのか気にしなくてもいい場所に戻る。

 

原作の『嵐が丘』のことを、高い教育を受けず、恋愛関係にも乏しかった女性が書いたものだと多分に見下した評を、どこかで見かけたことがあるけれど、可処分時間や可処分所得の奪い合いゆえのマウンティングだと思えばたわいない。

 

小さな世界で起こる出来事の数々は、ヒースクリフとキャサリンが激情をぶつけ合う、個人的な出来事に終始する。

 

小さな世界に終始して、同時代に対する批判的な視線を含まず社会的な考察も織り込まない。同時代の出来事に一切触れず織り込まない作風は、同時代に対する圧倒的な否定ともいえて、だーいぶ俗っぽいけれどまるで『細雪』のよう。

 

ここではないどこかへ。今の自分ではない何者かに。越境に対する強いモチベーションのある人には、高いハードルを越えるためのツール、例えば9センチハイヒールのようなものがよく売れる。

 

9センチハイヒールのような、背伸びするためのツールが誰かの豊かな生活を支えていたら、ハイヒールも履かず、背伸びもしないと非難の対象になり得る。その一方で、小さな世界でありのままに終始すると、小さな世界ともありのままとも調和しない、背伸びのためのツールは特に必要がない。

 

だから、可処分時間と可処分所得の奪い合いに文化の衣を着せたものと思えばたわいもなく、奪い合うものが単なるツールだったら、ツールとして使い潰されるだけ。

 

階級差のある男女(別に同性でもいいんだけど)が惹かれ合うのは、物の感じ方が一緒だから。

 

キャサリンヒースクリフはともに気性が激しく、沸点と氷点がほぼ一緒で感性が似ていると、私はあなたであなたは私という、いわゆる魂の結びつきが強いという状態が生まれやすい。

 

感性がぶつかると大喧嘩になり、互いに譲ることができないとそのまま決裂する。

 

一度上げたレベルを下げても平然としていられるのなら、その人は大人。一度上げたレベルを下げて、ありのままの自分の姿しか知らないキャサリンに合わせ、我が物にしたキャサリンの実家で暮らすヒースクリフ

 

別の場所で別の人生をおくる越境には成功しても、別人のようになることは選ばずありのまま。というのも越境の1パターンで、別の場所で別の人生をおくるなら別人のようにという越境パターンとは、また別の形。

 

『グレート・ギャッツビー』に『風と共に去りぬ』。

 

階級移動が可能あるいは容易になると、階級差のある男女の恋愛物語はイメージしやすく自己投影もしやすいから、好まれる。好まれてよく読まれるから、階級移動が容易ではなかった時代のベストセラーから攻撃が激しくなって不当に評価されて、時の試練に耐えない俗っぽいものとして扱われがちなのかも。かもかも。

 

風と共に去りぬ』では、階級移動を果たしたレットはスカーレットのもとを去り、スカーレットは恐らくその土地で、先祖伝来の土地を守って生きていくんだろうという終わり方だった。

 

『グレート・ギャッツビー』では、階級移動を果たしたギャッツビーは死に、デイジーは富豪の夫のもとにとどまる。

 

嵐が丘』ではキャサリンが死に、死んだ後も亡霊となって荒野をさまよい、ヒースクリフもまたキャサリンの愛した荒野にとどまり、荒野は荒野のままにしてるっぽい。

 

階級移動が容易ではなかった時代のベストセラーを量産する側にとって好ましいものは、階級移動が難しくなると復活する。

 

そういう視点でベストセラーやエンタメ作品のランキングを眺めると何らかの法則が見えてきそうで、暇つぶしにはもってこいでぴったり。そう思いながら、紅茶飲んでる。

 

映像化の時代に原作がどう解釈されるのか。

 

映像化という新しいものには、原作という古いものをどう扱うのかが凝縮されている。