クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

とらばーゆという死語

紙の本10冊と電子書籍10冊を比べた場合。どちらの方が読みやすいかといえば電子書籍で、何しろぶ厚い本を持ち歩く必要がなく、すき間時間も活用できれば気になったことを確認するために他の本を読むことも簡単にできる。

 

マイ書斎とともに、移動しているようなもの。

 

ところで裸眼視力3.0、普通の人ならオペラグラスや双眼鏡が必要な遠くのものも無問題で驚異の視力を誇る人に文明の利器、電子書籍リーダーを渡したらどうなるのか。

 

驚異の裸眼視力歴半世紀越えの猛者なら、文明の利器に対してもある程度は持ちこたえられるかもしれないけれど、何らかの対策を講じていないとたちまち視力は悪くなる。

 

そもそも驚異の視力の持ち主が並みの視力になったところで、メガネやコンタクトのお世話になればいいだけ、視力が落ちる原因となるものを遠ざければいいだけだけど、パイロットは目が命。今もそうなのかは知らないけれど。

 

例えばパイロットのように特定の職業につくために身体的条件が課せられるのは、その職業につくためには本当に必要だから。

 

細かな数字や文字を目で追い続けていると、目は悪くなる。パソコンやスマホの液晶越しだとなおさらで、IoTであらゆるシーンでインターネットにつながると、あらゆるシーンで視力は悪くなるばかり。

 

デジタルとアナログが接続していると、デジタルで疲労した目を休める時間ができるけれど、休む暇もなくデジタルで酷使しているとやっぱり目は悪くなっていくばかり。

 

だからデジタルが浸透している方がアナログとの接触機会も多くなるはずで、アナログとの接触機会を最初からたくさん用意しているのなら、最初からデジタルが浸透した世の中のカタチが見えている。

 

なぜあの人はデジタルデバイドの最先端にいるはずなのに、見た目は作業着でいつでも野良仕事オーケーなのかといえば、あらゆるシーンでアナログとデジタルを繋げようとしているからで説明がつき、得意なことは得意な方にやらせた方がいいという合理的選択なんだと思えばいい。

 

合理的選択が一般常識と乖離していても無問題ならそもそも常識なんか通用せず、常識は変わると知っているから率先して常識を変えにいってるんだと言うこともできる。

 

オセロだったら白をひっくり返したら黒になる。でも僕たち私たち、オセロじゃなくてルービックキューブで遊んでるから、チェンジした時に何が出るかはお楽しみなの。

 

という相手に、白か黒か二つに分けて考えるだけでよかった時代の常識は通じない。

 

出来が悪かったらチェンジプリーズで、次々に新しいものを試せるのなら層が厚い。出来が悪くてもチェンジプリーズとは言えずにそのままなら、新しいものはもう滅多に出てこず層が薄い。

 

紙の本への回帰が進んでいるのなら、どのような職についてもデジタルがついてくる。視力がより大事になってくるこれからの社会のなかで、メガネやコンタクトではどうにもならないできない、目を労わる根本から見直したからそうなったと考えることもできる。

 

スペースに余裕がないと書斎は持てない。だからスペースに余裕のある場所に場所を食うものを置くのは合理的で、立派な書斎(=蔵書が豊富)が複数集まるとミニ図書館ができる。

 

そしてどこでもインターネットの世界で司書の役割は、探している蔵書がどこの端末かが瞬時に把握できる人になって、蔵書と蔵書を必要とする人を正確に接続できるのがお仕事のできる司書の姿になるのかも。かもかも。

 

2023年3月@105.75、2022年3月@97.50、2021年3月@55.64、2020年3月@71.26、2019年3月@81.03、2018年3月@66.87、2017年3月@58.89。

 

これはとある公共サービス、為替の変動が如実に利用者個人に課せられるサービス料金の経年変化だけど、どこでも自国通貨で決済できて為替変動慣れしていないと為替耐性はつかないんだと、末端の利用者にもすぐわかる。

 

出来が悪かったらチェンジプリーズで、次々に新しいものを試せるのなら層が厚く、出来が悪くてもチェンジプリーズとは言えずにそのままなら層が薄い。

 

為替変動は、為替の変動慣れしていない者から見るとまるでマジックのよう。

 

広く浅く負担してもらいたいけれど、広く浅く賛同を得ることはきっと無理できっと反発される。そうわかっているものを広く浅く負担する時に発動するのがこの種のマジックで、マジックはマジックだと見抜いている者多数だともうマジックにはならないからとらばーゆ

 

歴史を繰り返すなら、場所を変えるに限るやね。