クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

卵抜きでケーキを焼く方法

ケーキを焼く時に必要なものは、バターに砂糖・卵に小麦粉。ふんわりフワフワのスポンジケーキにしようと思えば卵を固く泡立てればよく、卵抜きでもケーキが作れたら画期的で、卵アレルギー持ちにとっては朗報。

 

『日本企業の為替リスク管理 通貨選択の合理性・戦略・パズル』は、円建て貿易はなぜ増えないのか?という問いから出発した本。円建てで国境(円よりも強い通貨が幅をきかす経済圏含む)を越えた貿易取引が誰にでも可能になったら、外貨アレルギー持ちにとって朗報だから画期的。

 

世界の基軸通貨は米ドルで、日本の為替(あるいは為替政策)は対米ドルでの円高との闘いの歴史で、為替差損や差益に敏感なお国柄あるいは企業体質は、半世紀に渡る闘いの成果。

 

差益や差損に敏感だから、対外シェアの高い大企業ほど為替変動に対する耐性も高くなっている。

 

なぜ彼らは為替の変動に強いのか?

 

読み慣れない読み物は、想定筆者を勝手に設定すると面白くなる。

 

例えばこの本では、FXなど投資(あるいは投機)から外貨取引に入り、“自己の利益の最大化”に躊躇せず資産を築き、儲けた資金を元手に会社を作り、外貨取引が発生するECコマース向け対外貿易に乗り出してみたものの、“自己の利益の最大化”とは反する非合理的な商慣行に数多くぶちあたり、なぜなんだろう?と悩む誰かが合理的な説明をつけようと四苦八苦している。

 

という映像的状況を追加すると、ものすごく面白かった。

 

自国通貨が選好される、単一通貨による圏内取引の経験しかないと、為替差損や差益に鈍感になりがち。

 

経験的にはそんなの当たり前じゃん?常識じゃん。と、深く考えず慣例に従って行われている行為と行為の結果であるデータとのあいだに、齟齬がないかを検証しているようでもあり、データとどこかとの常識の違いがクエスチョンで提示され、問いに対するアンサーとして実務者が回答しているようでもあった。

 

実務者による回答により一見不合理に見えた事象にも合理的な説明がついた時が、脳内へぇボタンが押される時。

 

日本語としてこなれた文章とこなれない文章が混在していて、一冊の本として読み通した時に読みやすい本とはとても言えない。

 

だけど、当たり前じゃんとへぇが混在する割合に合わせると、そういう構成になるのかも。へぇと思う少のために多量の当たり前じゃんを用意したのなら、その労力は大したもの。使いにくいハードに対して現実的かつ柔軟に対応した結果、ソフトが独自進化を遂げたのかも。

 

円の歴史が対ドルにおけるボラティリティとの闘いだとすれば、対ドル戦は経験済みで、次に待っているのは対ユーロ圏で、ラスボスはもっと手強そう。

 

個人の最適化と集団の最適化が同じ方向を向いていると、合成の誤謬は起こりにくいか起こらない。個人最適が全体最適を阻害する合成の誤謬は、個人最適を追求しないと生き残れない個人に対しては、通じにくいか通じない。

 

為替リスクを管理するのは“コスト”だから。だから例えば研究開発費のようなものまで為替変動がおよび、一円の円安や円高ごとに損益分岐点が動くといつまでたっても製品は安定せず、安定供給もおぼつかない。

 

個人の最適化が集団の最適化を阻んで給与が減った時、個人は個人利益追求にますます傾斜していき、集団の最適化は遠くなる。自己の利益の最大化と属する集団の利益の最大化が著しく異っていた時、より不都合なのは属する集団での地位がより重い方。

 

卵抜きでケーキを膨らませようと思った時は、ベーキングパウダーを使う。第二章はベーキングパウダーのレシピで、レシピをオープンにできるのは多少真似されたところでどってことないから。

 

勝者総取りの世界では、すでに他の追随を許さないほど強固に作られたシステムがますます強固になっていくだけで、綻びが兆すのは勝者総どりの世界に綻びが見えた時だから。

 

どちらに転んでも、真似するものが増えてシステムが強固になっても、勝者総どりの世界に綻びが生じても問題ないから、“やったことのないチャレンジ”としてこんな本まで書いたんだ。とか思うとますます面白い。

 

標準化された部材や部品はドル建てにしやすい反面、ドル建てがいいとは限らないのは世界競争に晒されるから。差別化されたシェアの高い製品は円建てでの取引も可能で、自国通貨建てだとシッパーには為替リスクが生じない。

 

本来リスクがあるもののリスクが減る。あるいはゼロになる。それが卵抜きでケーキを焼く方法で、特殊なレシピと製法が入手可能な場所に用のある人は勝手に寄っていき、苦手な人と得意な人が集まると、そこに需要はあるけど今までなかった新しいものが生まれる。

 

ルールブックの変更は、自由主義社会では比較的フェアでオープン。強権社会ではフェアとは限らず、ルールブックの変更に対峙させられる側の対処法はより高度化する。

 

ずっと前に見た映画で、“外貨を前にイデオロギーなど無力”という台詞があった。時代は東西冷戦の終結直後くらい。東独で育ち西側世界へと亡命し、資本主義下で生きる息子が東独のイデオロギーを捨てないままの両親に向けた台詞だった。

 

日本円でのインボイス通貨圏の確立は、一見するとイデオロギーにも見える。

 

だけど単なるイデオロギーではなく経済的合理性を伴っていた時、“経済的合理性を前に外貨は無力”となって、為替リスクの生じない自国での地産地消が最高の為替リスクヘッジとなる。より大きなマーケットをめざすと専門家のいる場所へとなって、専門家が必要とされるようになる。

 

オリンピックや万博といった国際イベントの開催とともに外貨準備高が変化するというデータは、国際イベントの開催は開催国にとって自国通貨建て決済を増やす好機で、ハードカレンシーへの近道になるのかもと思った。

 

言われるままに外貨を売り買いする。そういう立場では出てこない発想が、よくも悪くも豊富だった。