不幸な局面で駆り出されて活躍する事業体や企業が“顧客の創造”をめざしたとき、不幸が増える。
逆に、ハッピーな局面で駆り出されて活躍する事業体や企業が“顧客の創造”をめざすと、ハッピーが増える。
禍福はあざなえる縄のごとしはつまりそういうことで、山が高過ぎると谷は深くなる。高い山も深い谷もフツーは安全とはいえない。普通は安全ではない場所が安全になるとセーフティーゾーンが増えて、危険と隣り合わせだから高収入みたいな職も減っていく。
今年の夏は京都に行ってきた。真夏の京都。
夏でも(比較的)涼しい札幌からすると、やっぱり別天地。炎天下に出歩くのは熱球に包まれながら移動するようなもので、大変なのはじっとりムッとする湿気。
ふた昔よりもう少し以前になると、夏の京都は超有名観光地であっても観光客もまばらで、閑散としていた。夏でも観光客がいっぱいだと、夏で暑いなかまぁご苦労さまという気分にもなるけれど、6~8月は世界的には旅行しやすい夏休みでバカンスシーズン。海外からの観光客が増えると、必然的に夏場もそれなりに混むことになる。
窓の外には一面の苔むした緑。
空調の室外機(?)から滴る雫も風流で、空調の効いた部屋の中からだから、視覚的にも涼しさが増した。
生い茂った緑の木々が陰を作り、苔むした日本庭園のなかを歩くと真夏でもちょっと涼しく感じる。熱せられたアスファルトの上を歩くよりも実際に涼しいはずで、風を通す道を作り、木々で陰を作るのも苔で地面を覆うのも、“都市を冷やすための工夫”。
苔むした地面の上を多数が歩くと苔も生えなくなるから、垂直にして苔の壁にしてみた。というのも、庭ではない現代の建物を冷やす工夫で自然エネルギーの利活用の一種。
日本人=ロコの考える京都らしさと外国人観光客の考える京都らしさがかけ離れて乖離がひどくなると、街はちぐはぐで汚らしくなっていく。
そして日本らしくて京都らしい、自然エネルギーの利活用という方向性でロコとグローバルが一致した街は、見違えるようにキレイになっていくのかも。
自然エネルギーの利活用法にかぎらず、対立しがち(あるいは張り合いがち)な両者が何かの方向性で一致すると、ロコもグローバルも満足する、長く安心して使える内かが生まれやすくなる。
(ユリカモメではなく鷺っぽい鳥を何度か見掛け、何度も見掛けるのは変だと思った。)
旅行には不向きな夏に、わざわざ京都に出掛けたのは用事があったから。日本生まれのロコならありがちな夏の用事、先祖供養も、日本以外で生まれたロコが増えるほどに夏の定番とは言えなくなって、また別の過ごし方が定番となってもおかしくないし、不思議じゃない。