クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

使い過ぎると、壊れる

罪を告白すれば、許しが与えられる。門外漢だからざっくりとした理解しかしてないけれど、懺悔というのは一見便利なシステム。告白を受ける方は、またかいとうんざりしないのだろうか。うんざりしていても態度には表さないのが、聖職者の聖職者たるゆえんか。

 

告白すれば許されるならとカジュアルに罪を重ね、懺悔の常連になる人にはまずは罪を犯すなと言いたくなるのが、人間ができていない非聖職者。

 

罪を告白すればとりあえず許しが与えられる場で、やったことがあまりにもあまりだからその罪については告白もできず、懺悔する用に新たな軽い罪を重ねるようだと、人間ができていない非聖職者からすると、救わなくてもいい人筆頭にしか思えない。

 

救いようがないようにしか思えない人にも、許しを与え続ける。

 

許さなくてはいけないとなると、多分罪を告白される人の方が罪を告白する人よりも先に壊れる。

 

救いようがないとしか思えない人にも許しを与え続けるようシステム設計すると、善良な人からまず壊れてゆく。結局最後は聖職者とも思えないような、資格はあるけど善良な人からはソッポ向かれるような人しか残らなかったら、システムそのものも壊れてしまう。

 

システムの許容範囲を大きく踏み外した誰かや何かを送り込み続けると、脆弱なシステムほどあっという間に壊れる。誰かや何かを送り込み続けるには組織力が必要で、組織が大きくないとそんなイヤガラセは、そもそも無理。

 

自分では作れないけれど、あったら便利。だったら、欲しいとなったらまずは壊して乗っ取る作法が身についた人や組織は、じわじわーと真綿で首を絞めるようなイヤガラセに出そうという、これは個人の偏見です。

 

あったら便利だったら自分で作ればいいし、買ってくればいい。

 

そのどちらもしたくないけれど、欲しいものは欲しいで我慢がきかないのなら、楽してホニャララ儲けが身につき過ぎている。

 

楽して金儲けは、快楽のようなもの。誰かに厳しく監視され叱咤され、つまり考えることを他者にゆだねたまま言われるままに何かの作業に没頭し、没頭した作業に高報酬もセットでついてくるが身につくと、その連鎖から逃れるのは難しくなる。

 

厳しく叱咤する人や指示を与える人がいないと作業は進まず、作業が進まないから報酬もままならないのなら、ちっとも楽じゃない。楽じゃないから楽もできなければ、稼ぐこともままならずだったら、快楽にはならないから快楽におぼれることもない。

 

楽できないように変えると楽じゃないから、快楽に弱い人からその場を後にする。

 

残したい人を残せるようなシステム設計、大事よね。