クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

上を向いて咲くのがモクレン

こぶしとモクレン。どちらも白い花びらで(モクレンにはピンクもあるけど)木に咲く花で、花びらだけ見てもどちらかわからない。

 

だけどモクレンは上を向いて咲く花で、微かな芳香がある。だから上を向いて木に咲き芳香を持つ花は、モクレンの仲間だと思えば大体間違いない。

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(蕾の時から上向き)

“香りのいい白い大きな花びら”を杯に見立ててお酒を飲む。という風流なアイデアは、花びらが白くて美しいあいだじゃないとできない業で、白い花は枯れるか鮮度が落ちると茶色く変色していく。

 

茶色く変色していく白い花がほとんどのなかで、黄色く変色していくものは栽培種として珍重されて別の名前を与えられて、今ではもうその辺で見ることもなくなった。

 

栽培種として見出されると、元々自生していた地を遠く離れ、勝手気ままにその辺に生えることはなくなって、合うかどうかもわからない土地まで運ばれる。合わない土地でも育つよう改良を重ねた種は、今度は元々自生していた地に合うかどうかも怪しくなってついには根無し草になることもあったのかもしれない。

 

合わないはずの土地まで運ばれてきても立派に根を張った。大人の腕のひと抱え以上はありそうな大木に育ったソメイヨシノが、まだ幼木だった頃の景色や植生は一体どんなものだったんだろうと思う。

 

まだ生まれてもいなかった時代を再現するには資料や知識が必要で、資料も知識も失われたあとに再現された“きっとこんな感じ”は生まれてから見たもの聞いたものと地続きだから、“どこかで見た感じ”になる。

 

本州ではもう散ってしまったあと、花粉症(ただしスギ花粉症)もすっかり治まった頃に見頃を迎える北の地で咲く桜は、天の配剤っぽい。

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(桜と青空、早朝だから晴れてるけどちょっと暗めの空)

花より団子の団子がなくても、花めざして人がやって来る。

 

そもそも人が、わざわざやって来る行為そのものがすごいことで、人を呼ぶ、呼び寄せるために改良を繰り返してきた結果が行楽シーズンにはあからさま。

 

花より団子のために改良を重ねた団子は、花を見るためにわざわざやって来る人の目に止まらないと花より団子にはならない。団子で人を呼ぶためにはやっぱりまず花なんだと気付くから、桜に限らずあっちでもこっちでも花がきれいに咲くんだと思った。

 

花も団子もどちらも余裕の産物で、余裕があるから花はきれいに咲いて団子はより美味しくなり、余裕に合わせて花も団子も厳選されるから誰もが知る名所や名物の数はそんなに増えないし変わらないんだ、きっと。

 

各々の好みを反映して、好物は増えても名物は増えない。そんな感じ。