GWを振り返ってみると、花ばっかり眺めてた。
桜に梅にモクレンにレンギョウ・スミレにタンポポ。エゾエンゴサクにエンレイソウ、ウツギに多分リンゴの花に雪柳にチューリップその他いろいろ。
色絵の具をキャンバスにぶちまけたように、色とりどりの花が次々に咲いていくのが北国の遅い春で、チューリップもこんな風に色とりどりに咲いている方がより北国っぽい。あるいは札幌の春っぽい。
雪が降り積もってモノトーンで無彩色だった世界に、次々といろんな花が咲いていって彩り豊かになって季節の移り代わりを実感する。そういう心情が花の植え方にも現れるようで、無彩色の世界を経ると“次々”に“色とりどり”になっていくという景色のありようが好ましく思えるようになるのかも。
寒暖差が激しくて、暖かい(あるいは暑い)と着込んでも寒いが交互に訪れたせいか、花の咲き方もいい意味で不順だった。不順だけど、目の保養になったという点で。
ライラックと桜が、レンギョウとライラックが一緒に咲いていて、あらビックリ。
GWに梅、梅と桜が一緒に咲いていてもびっくりはせず、むしろこっちの方が正解だよねと何だか安心した景色は洞爺湖を見下ろす壮瞥公園でのもの。
梅の咲かない時期にたまたま見つけ、梅が咲いたらきっと見事だろうと思った桃源郷ならぬ梅の郷。淡いピンクの梅の花の足元には黄色いタンポポで、洞爺湖を見下ろし湖だけじゃない起伏に富んだ洞爺湖周辺の景色が楽しめた。
小高い山の上にお城のように聳えるのはサミットも行われたウィンザーホテル。壮瞥公園からもう少し車を走らせると、今度はひっそりと桜が咲いてタンポポが咲き乱れる公園にたどり着き、ささやかな桜並木越しに見える湖面の春らしい水の色がやっぱりきれいだった。
梅と桜が一緒に咲くならば、各々をちょっと離して梅は梅、桜は桜で見せ場を作るも天の配剤かそれとも余計なお世話なのか。それはそれは見事な梅のあとだから、桜も映えた。
斜面だから見晴らしがよく、風も吹くから梅の香がよく香る。湖面に梅という立地を最大限に生かしたアウトプットは、ささっと極上のものだけ摘まみたいという寿司や天ぷらのカウンターっぽい発想だと思った。
上も下も見ず、ただ真っ直ぐに目の前を見た景色と上から見下ろした景色、下から見上げた景色はまた違う。起伏がある、あるいは起伏があったということを忘れてしまうと、アウトプットもそれに準じるのかも。
自分で作るケーキやおやつはシンプルなもの。手の込んだ、ゴージャスだったりスパイシーだったりして大人っぽいものは買ってくるもので、文明論や文化論のようなスケールの大きなテーマを扱ったものはたまにしか食べないスペシャリテ。
どの章もたっぷりスパイスが効いていて食べやすくはないけれど、食べ応えもたっぷり。
印象に残った箇所はきっと心象的にもぴったりきたもので、“物の平和的利用は時と所を越えて善”という一文は、目の前を真っ直ぐに見つめたから出てきたのか上から見下ろしたのか、それとも下から見上げたから出てきたアウトプットなのか。
悪徳は瞬速で物を食い潰して食い荒らし、長期に渡って物をもたせることはできないから、長持ちを考えモノカルチャーに対するカウンターとして使えるものの選択肢の多様性を考えたら善なるものへの利用に向かうというのは、経済的にも合理性があると思った。
物の利用、物産利用について深く考察した副題に「鎖国」再考とついた、『日本文明と近代西洋』という現静岡県知事による本は、真っ直ぐに目の前を見て上から見下ろして下から見上げないと出てこないアウトプットだと思った。
対象と真っ直ぐに向き合えるし、見上げることもできて見下ろすこともある。インプット=師とすれば、よきインプットが得られるよき師に恵まれているんだろう。