クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

忘れる前に

地震よりも、長引く停電により驚いたし困惑した。電気が消えた時は驚いたけれど、どうせすぐに明るくなるさと、甘く見てた。

 

9月6日の3時頃に地震が起こって、しばらくしたら停電した。電気が復活したのは9月7日の未明で、停電していたのはだいたい24時間。たったの24時間あまりなんだけど、長かった。

 

プラプラ街中のようすを偵察していた時。駅前の金融機関には次の日、9月7日には朝から営業との張り紙があったので、きっとそれまでに市内中心部の電気は何とかなるんだろうとは思っていたけれど、それでも長く感じたんだから、堪え性がない。

 

発電所の復旧計画とその進捗が明らかで(テキスト情報かつ目立つ場所に掲示という親切設計)、それでも自宅の電気がつくまではイライラするんだから、我慢が効かない。

 

知床のように自然豊かな場所に旅行した時でさえ、丁寧に淹れたコーヒーや紅茶と手を掛けて作ったケーキが恋しくなる人だもの。そういうことが、当たり前になった時が日常さ。都市を都市たらしめているものは、その種のなくてもいいけどないと味気ない諸々のもの。

 

非常時との折り合いをどうつけるのかが、節電目標と実際の数字に反映されてる気がしたね。

 

晴耕雨読自然エネルギーに頼ると、電気の使用量も抑えられるってもんで。風が抜け、光が入る建物だったら、フルパワーの電力に頼ることもなし。たまーにだったら階段の昇り降りも苦にならず、いい運動と慰めることもできるけれど、それが当たり前になったら配送業の人や高齢者はたまらんでしょ。

 

そもそもお日様の光がたっぷりと降りそそぎ、風が抜けるから乾燥機もエアコン使用量も極小で済む一戸建てが建ち並ぶエリアと、限られた土地の高度利用めざして上へ上へと伸びていくしかないエリアと。

 

エリアやブロックごとの特性に合わせ、細かく設定を変えられるシステムには柔軟性を。その反対に、硬直したシステムに合わせられない、自助努力で何とかできる人たちならどこまでも自助努力でがんばりなと放り出すシステムには、怠慢を感じる。

 

二階建て以上の建物といえば、公的機関か病院しかなさげな札幌以外の都市や札幌市郊外から豊平川を越えて中央区に入ると、いきなり高層マンションが立ち並ぶから面食らう。

 

職住分離で住まいと職場が離れたライフスタイルは、近代のものなんだってさ。

 

通勤や通学で、ある地点を越えたらいきなり景色が変わることを体感してる人なら、普段から二つのライフスタイルを行き来しながら生活しているようなもの。反対に、職住近接で普段から生活と仕事が密着し、人間関係や交友関係にも入り込んだライフスタイルの人とは、違う世界を見ている。

 

電気が復活したあと、家電製品の時刻表示を入力し直すことに面倒くささを感じたけれど、電波時計内蔵型にでもなったのか。意外と手間もかからずにラクチンだった。東日本大震災時を思うと、地味なところで進化してる。

 

余震が来るかもしれない状況でも、プラプラ街中まで出歩いてヘーキなのも、アスファルト舗装された道路が大蛇のようにうねり電柱がグラグラ揺れるなかを、自宅までテクテク歩いて帰ってきた経験があるから。

 

それでも昨日は寝る前にあった地震のせいで、しばらく寝付けなかった。慣れるものと、どうしたって慣れないものと。そこはもう、どうしようもない。

 

信号が消えて、ライトで交差点進入を知ることができる夜間ならともかく、日中はどうなるのかと思ったら、交通量の多い場所にはちゃんと交通整理の人が居た。コンビニを筆頭に、開店しているお店が多かったのも、意外。店内は薄暗いままだったりしたけれど。

 

スマホという強力な武器が充電切れで役立たずになって、右も左も言葉もわからない場所で、非常時ながら開店していた場所で食べた、温かい出来立ての食べ物は、きっと強く印象に残る。

 

大変だったねと誰かに話を振られても、そうなんだけど、あの時食べた「ほにゃらら」は旨かったと拡散してくれる可能性のある人たちになら、そりゃ張り切って親切にもするさ。彼らは単なる行き場を失った旅行客ではなくて、熱烈かつロイヤリティの高いファンでアンバサダーになってくれる可能性がより高い人たちなんだから。

 

商魂のたくましさがほんのり、あるいはがっつり垣間見える非常時ならではの光景は、微笑ましいを通り越して、ファルスっぽくもあった。

 

その一方で、非常時用のマニュアルがあり、末端であってもきっちりマニュアル通り動ける人を揃えている組織が見せてくれる、非常時の動きは美しかった。マスゲームにもつながる美しさだから、あんまり褒めるのも何だけどさ。

 

非常時に、非常事態となった場所に人を派遣するのは、何よりも自分たちのため。そこで見聞きしたことをマニュアルに落とし込んでリスクに備え、いつでも余裕が発揮できるようなサイクルが循環する限り、余裕が途切れることはなし。使い果たした余裕を取り戻すために、ファルスを演じることもなし。   

 

本日休業の張り紙も、手書きのものと印刷したものと二種類あって、似たような規模のお店でも余裕のありなしを勝手にそこに見ながらプラプラしてた。

 

非常時であっても煌々と灯りがともった営業中の金融機関もあったけれど、真新しいビルで他のテナントが閉店中だからできたことでもあって、真逆の条件で同じことはやれない。

 

ついでに顧客層を考えたら、現金の出入りに備えてのことにも見えるし、非常時であってももしかして小切手や手形を持ち込む人でもいるのかも。「非常時だから大丈夫」という甘言に煮え湯をのまされた経験でもあれば、期日を守ったのはこちらと何が何でも証拠残したくなるでしょ。

 

多勢に無勢で理がある方がバカを見たのなら、同じ轍は踏むもんかと意固地にもなる。

 

アナログなテクノロジーで非常時を乗り切れるのは、新旧取り混ぜて人材が豊富な証拠で、新あるいは古い方にしか舵を切れないのは、人材に偏りがある証拠。非常時に張り切ってオールドテクノロジーを披露してくれる人がいる組織は、お金よりも人手が欲しい時の強い味方。

 

今ある食材がダメになるかも知れず、次の入荷はいつになるかわからないとなったら、使い切って売り切りたくなるのが人情ってもので。個人経営で替えが効かないのなら、休める時に休むのも戦術のうちよな。

 

非常時に無理くり店開けて、大勢のお客さんを迎え入れるお店は、いってみれば地域のストックヤードで、食料その他日用品がその地域に流れてくるいっちゃん太いルート。いっちゃん太いルートがあるから、その他のあってもなくてもいいものが流れてくる細いルートも生まれるわけで。

 

そもそも流れてくるものがあるから、分岐が生まれるもの。流れてくるものさえなくなったら、どうなるのか。ということを考えながら、非常時に街中プラプラしてた。寝る場所も居場所もない観光客を許容量以上に抱えると非常時の負担が勝るけれど、観光客が居る景色と落とすお金を当たり前にしたかったら、どう受け入れていけばいいのか。

 

光都市として生き残りたい他の都市も、サンプルを元にじっくり考えてるかもね。かもかも。可哀そうと口に出すのはいちばん簡単で、可哀そうをなくそうと労力使う方が大変さ。

 

お休みなさーい。