クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

お金で買えるのは演技

感情はお金では買えないから、買えるのは演技。

 

喜んだ「ふり」、怒った「ふり」なら買えるし、金銭にだって交換可能で、その辺りでは売ってるものでもない、買いにくいものだから職業として成り立っている。

 

どこでも買えるようになると希少さは薄れて買い叩かれるだけになり、最後は価格が決め手となって価格競争に巻き込まれ、体力が奪われていく。その名に価値があれば、また別だけど。

 

ネームバリューを裏付けするのは何らかの権威で、権威が権威として敬意を払われるのは、権威が揺らがない場合に限る。

 

いいねやライクは、やりようによってはお金で買える。すでにそう知ってしまったあとでは、“みんなの意見は案外正しい”は真ではないから、お金では買えない権威の価値が上がる。

 

だけど権威だって同じようにお金で買えるとわかってしまうと、ハードルの低い認証機関という、便利なツールとして使われるだけ。その時売り買いされているのは単なる演技で、ふりの売り買いが行われているだけ。

 

権威の感情までは、お金では買えない。と、周知されていて、なおかつ権威が褒めたりけなしたりといった感情を露わにした時だけ鶴のひと声で大きなお金が動くと、権威が権威として機能し、ハードルの低い便利な認証機関ツールの対価として溜め込んだ資金の行き先が決まる。

 

感情はお金では買えず、売り物にはならない。売り物にするには、何といっても供給が不安定という欠点が大き過ぎるから、売り物にするなら演技。

 

売り物にならない感情は、当たるも八卦、当たらぬも八卦のバクチとなって、娯楽やエンターテイメントのネタとなる。狙った目を出すことのできない神様(別名何かの権威)は、サイコロを振るわけにはいかず、サイコロを振って遊ぶヨユーのない神様となって、鶴のひと声が出る確率を上げに行く。

 

褒めたりけなしたりといった、感情という本来売りづらくて扱いにくい商材に価値が付くのは、過剰な演技にみんながうーんざりしてる時。

 

上手な演技ができる人を探しにいくのと、演技なんてできない人を探しにいくのでは、意味がまったく違う。

 

うれしい・楽しい・だいすきの超短文でワンセンテンスだったら、演技なんて必要ない。その反対に、単にうれしい・楽しい・だいすきといった、本来超短文で済む感情の表出に万言(例えば、千文字とか一万文字)を費やされてことばが増えるほどに、演技か素なのかわからなくなる。

 

感情表出のとあるパターンが、NGの演技例としてルールブックに採用されて流布するようになると、自然な感情の発露とは見なされず、稚拙な演技としてNG判定されてしまう。

 

だから、ルールブックに慣れ親しんだ側の土俵に、ルールブックなんてそもそも存在しない側が無防備かつノーガードで寄っていくとNG判定が続出するだけで、演技もへったくれもない大根集団が出来上がる。

 

その場に、ルールブックは存在するのか否か。あるならどのバージョンと、その場にふさわしい振る舞いを瞬時に見抜いて変幻自在に振舞いを変える。そこまでできるほど場数を踏んでいると、無敵になれる。なれても嬉しいとは限らないけど。

 

同化は生産や製造につながり、演技は消費につながる。

 

生産や製造の一端を担わないかぎり完全な同化はありえず、最新のルールブックに親しむこともない。

 

生産に携わってこなかったものと生産を担ってきたもの。立場が逆転した時から、とある産業における生産と消費の立場も完全に入れ替わる。

 

感情に訴えても売れない時は、理屈で売ればいいだけ。

 

正直、ホニャララには劣るけれど、かくかくしかじかの理由があるので買ってください。それが結局、現状維持に役立ち、“あなた”の暮らしを劣化させないためにも必要で、場合によっては余力が生まれ、今よりもよい暮らしになる可能性もあります。

 

という判断を、いつでもどこでも誰もがしているわけではないけれど。

 

何とか贔屓と言われる現象が目につくようになるのは、そういうことかもしれない。鶴のひと声が出る確率を構造的に上げに行くのなら、サイコロ振って遊ぶヨユーのない神様しかいないってことだから。