クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

ビッグ・バン

技術が進歩して量産が可能になったら、理屈の上では価値が落ちる。

 

本来は有限なはずのもの。いつかは尽きるはずにもかかわらず、いつまでも生産が続くものはだから、技術の進歩によって限界や寿命を超えたもの。という説明で納得してる。技術の進歩が止まったら、そもそも有限なものだから生産も続かない。

 

生産が続かない、あるいは生産できても需要を賄うほどではないことがわかっていたら、量産で価値が落ちたものの価値もまた跳ね上がる。かもね。代替品が生まれるまでは。代替品がないと、そもそも有限なだけに技術の進歩が止まって生産が細っても、価値は高止まったまま。

 

代替品といったって、そうそう代わりが見つかるものでなし。

 

代わりにこちらはいかがですか?と次々に新しい技術によって生まれた代替品が現れたところで、二度と生まれないものや二度と作れないものの価値は高止まったまま。高止まったままのオリジナルと、比較され続ける代替品の方が先に消えていくから、量産で得するのは結局のところオリジナル。

 

だから、量産するならコピーよりオリジナル。二度と生まれないものや二度と作れないオリジナルを次々に作れたら、理屈の上ではコピーを次々に量産するより最終的には長持ちして、消耗品ではなく長持ちするものだから、需要も途切れない。

 

技術の進歩によって量産が可能になったコピーは、単なる消耗品。単なる消耗品だから、いつまで経ってもコピーに価値が生まれることはなく、コピーが量産されるほどに二度と作れないし生まれないオリジナルの価値が高まっていくだけ。

 

二度と生まれないし二度と作れないものは、端的に言えば命を削ってできたもの。ビッグ・バンみたいなものだから、滅多に生まれないし滅多に起こるはずもない。なのに次から次へと生まれてくるのなら、四六時中誰かがどこかで命を削ってることになる。

 

二度と生まれないし二度と作れないものは、ポコポコ生まれてこない。

 

量産されるのはコピーだけで、コピーだけが世の中にあふれているなら誰も命を削ってないってことで、なんてピースフル。唯一無二のオリジナルよりもコピーで充分さという態度は、時と場合によっては平和を望むから生まれてくるのかもね、かもかも。