把手が取れるはずのフライパン、目的外使用で酷使したあげく、ついには把手が取れなくなってしまった。
つまめるとなると、ついつい何でも気軽につまんでしまったのが原因の自己責任だと承知してる。一見なんでもつまめそうで、応用範囲が広かったんだけどさ。蝶番のように、組合せが異なれば絶対につまめないタイプの把手が取れるフライパンは、一見ローテクながら極めて丈夫で今でも現役。
造りが簡単。極めて丈夫で買い替えが進まないからと量販店から嫌われるせいか、かつてほど扱ってるお店も見なくなった。高価なのも嫌われる一因か。適度に壊れて買い替えが発生する商品じゃないと、量販店の店頭には並べられないということか。
だから量販店でよく見かけるものは、いつまでたっても安っぽく見えるのかも。
鍋にフライパン。料理器具の基本中の基本の道具は、ずーっと昔からその形状は大して変わってない。四角い鍋にフライパンさえ数が少なく、鍋とフライパンは丸いものだという前提でキッチン、おもに熱源周りもデザインされるから、キッチンそのものの形態も、大して変わりゃしない。
丸の方がいいのは、かき混ぜることや洗いやすさを思えばその方がいいとよくわかるんだけどさ。
使われてるマテリアルやデザインが洗練されても、丸い鍋とフライパンの呪縛から逃れられてないから、キッチンも似たり寄ったり。
四角い鍋やフライパンに代わるものが、炊飯器に電子レンジやオーブン。あるいはホームベーカリーにホットプレートで、電気圧力鍋でさえやっぱり今でも丸形が主流。炊飯器は徐々に四角が主流になってきたのにね。
四角い、ブロック状の調理器具がキッチンの主役になったら、キッチンそのものも大きく変わる。のではないかと夢想。
把手が必要な形だと、支える腕や手が必要となるけれど、置きっぱにできる形で把手なしだとスイッチさえ押せればよく、例えば音声、声による命令で、ねぇスイッチを入れてで動くようになれば、腕や手が使えなくても調理可能になる。
オーブンレンジや電気圧力鍋は、つきっきりで火の番をする必要がなく、いわば火の管理という面倒ごとから解放された調理の姿。
あとは火を通すだけという状態で届いた食材に、スイッチをいれれば稼働し、勝手に調理してくれる調理器具が揃ったキッチンの姿は、外食店のキッチンをそのまま家庭に持ち込んだようなもの。調味料を加えるといった動作もプログラム済みとなれば、調理あるいは料理の定義も変わる。料理とは、どこからどこまでの動作を言うのかわからなくなる。
料理好きな人がまったくの趣味で時々集まって一緒に楽しく料理をし、感想戦を行う姿は料理好きの極北で、その場で披露される料理はだいたいとんがってた。とんがってるから趣味の範疇におさめ、売り物にする代わりに時々自由に調理して楽しむ道を選んだっぽくも見えた。
とんがってるもの、平凡じゃないものを売り物にしてビジネスにしていくのは、凡百のものを売り物にしてビジネスをしていくより難しそ。他文化あるいは異文化への入り口に食べ物を持ってくるのは、ハードルが極めて低くてとっつきやすい。
半世紀前の食卓に比べれば今の日本の食卓、日常に口にするものは知らぬ間にグローバルになっていて、ではまだ足りない“文化”は何でしょうと考えたら、足りない文化もおのずと見えてくる。
アイデアだけは豊富に詰まってる人に必要なのは、スイッチオンで自在に動いてくれる、自力で動かす必要のない調理道具よな。そして、市場規模が大きくなったら勝手に周囲が忖度してお膳立てしてくれる。