クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

持て余すともつれる

感情のもつれ、あるいは感情のしこりがもたらす経済的損失は侮れなくて、侮れないほど大きなダメージを与えられると知ってる側は、だから感情のもつれやしこりをわざと演出する。

 

例えば泥沼化した紛争地帯。紛争さえなければ交通の要所、あるいは豊かな観光資源や文化遺産を生かした文化観光立国として、もっと発展していたかもしれないと想像するのは、わりとたやすい。

 

泥沼化した紛争地帯が、もともとは豊かな観光資源や世界遺産級の文化遺産、あるいはよそではあまり見かけない自然の宝庫だったことを知ってると、余計にそう思う。でも、泥沼化する紛争地帯というのは、だいたい昔っから名の知れた大国でも大都市でもないことがほとんど。だから、昔っから名の知れた大国や大都市の思惑によって、紛争地化するしさせられがち。

 

紛争地というより代理戦争地化しやすいと思った方が、より想像しやすい。

 

激しく対立する二者の間には、対立にふさわしく相応のエネルギーが各々に注ぎ込まれる。発散させようのないエネルギーを持て余してるような人や何かにとっては、行き場のないエネルギーを発散させるのにもってこいの場所。

 

発散させようのないエネルギーを持て余してる人や何かは、平穏無事ファースト界隈では単なる厄介者。平穏無事ファースト界隈じゃなかったら、誰の指図を受けなくとも安易かつ安価なエネルギーとなって、紛争地を勝手にホットにする。

 

あそこに行けば、発散させようもなく持て余してるエネルギー、遠慮なく発散できるよと示唆するだけで、発散させようのないエネルギーを持て余してる界隈は勝手に集ってくる。勝手に集って、持て余したエネルギーを各々が思うように何らかの形に変える。建設的よりも、たいていは破壊的な形に。

 

だってエネルギーは流れるだけで、貯めておけないじゃない?

 

生産的なことが得意な人や何かは、そもそも平穏無事ファースト界隈とは相性がいい。

 

だから非建設的で破壊的なことが得意な人や何かは平穏無事ファースト界隈とは折合いが悪く、折合いが悪いだけならともかく折合いさえつけられないほど感情のもつれがゆき過ぎると、“場“が壊れる。

 

相容れない両者を同じ場所に置くと、たいていは“場”が壊れるだけで、均衡が崩れて壊れた“場”は、紛争地や代理戦争地に選ばれやすい。

 

平穏無事ファースト界隈とは相性の悪い、発散させようのないエネルギーを持て余した、生産的なことよりも非生産的で破壊的なことが得意勢を、送り込むのにちょうどいい先として。

 

島流しという刑罰が江戸の昔はあったけど、都市の治安を守ることを考えた時、よくできた制度だと思うしかない。発散させようのないエネルギーを持て余すのも、そもそも文化文明が整っているからで、文化文明度が下がるとまずは生存にエネルギーを使うようになる。

 

生活環境が厳しくなればなるほど、単なる生存にエネルギーを使うようになり、無駄なエネルギーを持て余すこともなくなる。生存にエネルギーを使うようになったからといって、誰もが生産的になるとは限らず、平穏無事ファースト界隈との折り合いがつけられるようになるわけでもない。

 

平穏無事ファースト界隈とは相性が悪いはずなのに、なぜかいつも平穏無事ファースト界隈に出没する。そんな人や何かは、非生産的や破壊的な性質を逆手にとって、平穏無事ファースト界隈が出来ないことを代わりにやることで彼らと折り合いをつけた姿。

 

庇を貸して母屋を取られちゃうと、平穏無事ファースト界隈の中身もそっくり入れ替わる。

 

感情的なもつれやしこりにいつまでたっても折合いがつけられない先にあるのは、経済的損失だけじゃなくて、結局は文化も文明も損なわれていく世界。泥沼化するってそういうこと。

 

舞台と役者が揃えばいつでもどこでも再現が可能と学んだ側は、好きな時に好きな場所で、また同じことを繰り返すと思う今日この頃。すっかり日が暮れるのも早くなった。